第37回「調心B −
前段に引き続き、今回も坐禅中における心の調え方に関する瑩山禅師様のご教示が続きます。「居常に坐する時」というのは、普段の坐禅を意味しています。心を左の掌に安置するように意識してみると、心が散乱するようなことはないと瑩山禅師様はおっしゃっています。左手の中という定まった場所が心を安定させ、調えてくれるのでしょう。
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、国が緊急事態宣言を出した4月頃、「7日間ブックカバーチャレンジ」というのが流行りました。これは、外出自粛が叫ばれる中で、読書文化の普及を目指し、一日一冊本を読んで、その説明・感想をfacebookで1週間に渡って掲載し続けると共に、可能であれば、自分の友人にも参加をお願いするというものだそうです。私の知人の何人かの方も、チャレンジしている方がいらっしゃいましたが、他者への参加依頼はともかく、普段、中々、読書の時間がない人々にとっては、活字に触れ、自分の心の中を文章で表現するいい機会になるのではないかという気がします。
そんな「7日間ブックカバーチャレンジ」ではないですが、私のような宗門の布教活動の末席に身を置くものにとって、坐禅と経典祖録の読解は緊急事態宣言中のみならず、常に欠かすことはできません。ここ最近は、明治・大正期における臨済宗の僧侶・
釈老師のお言葉に触れながら、ご本山で修行させていただいていた頃が懐かしく思い出されます。当時は、お経の意味内容を十分に理解することなく、ただお経本に必死にかじりつきながら読んでいたものですが、今思えば、そうした経験によって、経典の言葉が身体中に染み付き、内容理解がスムーズに行えることに気づかされます。以前、「お経の意味内容を理解していないのに、お経を読んでもらってもありがたみがない」というご意見をいただいたこともあったため、経典の内容理解に努めていますが、その土台には“お経を読んで、読んで、読みまくる”ことがあってこそ、深い理解につながっていくことを再確認させていただいたように思っています。
それと同じで、坐禅も“やって、やって、やりまくる”以外に、坐禅の理解・体得は勿論、人様にお伝えできるものは出てきません。こうして瑩山禅師様の「坐禅用心記」に触れさせていただくように、坐禅の合間に古人が示された経典祖録に目を通しますが、そこにばかり捉われてしまうと、坐禅の実践を差し置いて、知識の習得に偏ってしまいます。これではお釈迦様が坐禅を通じてお示しになった仏道をそっくりそのままいただくことなど不可能です。自己流の仏道解釈になりかねません。それが「古教えの如きは照心の家訓なりと雖も、多く之れを見、之を書し、之を聞くべからず」の意味するところです。そうした偏った言動が、自分の心を乱すと共に、心の病の発生につながりかねないと瑩山禅師様は注意喚起なさっているのです。
瑩山禅師様は経典祖録に触れることそのものを否定していらっしゃるのではありません。そこに集中しすぎることに警笛を鳴らしていらっしゃるのです。これは中国の禅院で経典祖録を読み漁っていた道元禅師様に仏道を伝えたかの「