第47回「
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「もし、瞋りの感情を自分のほしいままにして、調整することがなかったとしたら、どうなるのでしょうか―?」その答えは火を見るより明らかです。お釈迦様は「道を妨げ、功徳の利を失す」とおっしゃっています。どんなに善行に励み、世間からいい評判をいただいていたとしても、「たった一回の瞋りの感情を帯びた言動は、大火の如く、これまでの全てを焼き尽くし、元の状態に戻ることの妨げにさえなりかねない。」とお釈迦様はおっしゃっています。
そう言われて、ハッとさせられる方は大勢らっしゃるかと思います。私もその一人で、誰よりもこのみ教えを十分に我が身に念じ込んでおきたいと、日々の生活を振り返りながら反省させられるのです。振り返れば、「恚心を縦にして」と言わんばかりに、随分と瞋りの炎を燃やしては、周囲に不快感を与えてきたことが思い出されます。そして、自分の不始末の後片付けばかりしていたように思います。そうは言いながら、火事の記憶が完全に消え去ることもなければ、元のように原状復帰できたわけでもありません。何らかのしこりが残ったまま、今に至ることばかりなのです。それが「恚心を縦にする」ということであることを肝に銘じておきたいものです。
この「瞋り」に対して、「厳しい言葉」というのもありますが、両者は似て非なるものです。しかし、我々は、ついつい混同して捉えてしまいがちです。なぜなら、相手のためを思い、ついつい語気が強まると、怒っているように見えてしまうからでしょう。私はこの厳しい言葉というのは、大切だと思います。と申しますのは、人間は誰しも、自分に甘いところがあるため、優しい言葉で注意されても、ついつい自分に甘えてしまい、中々、問題点が改善できません。しかし、厳しい言い方で注意を受けると、ハッとなって、身が引き締まるのか、改善につながっていきます。それが厳しい言葉を大切だとする理由です。ですから、自分も発することもあれば、逆に、人様からいただいたならば、素直に受け止めなければならないと思っています。
とは言え、厳しい言い方は人を傷つけるのも確かです。そういう言葉を投げかけなければならない場面に出くわしたとき、言われる側の心情には必ず配慮することが大切です。そうした配慮の有無が「瞋り」か、相手を思いやるが故に発せられる「厳しい言葉」なのかを決定づけていくような気がします。表面的な言葉の温度だけに捉われず、状況に応じて、相手の立場に配慮した言動を提示していくことが、「恚心を縦にしない」ということなのです。そうやって、言動を発する側も発される側も妨害されることなく正しい道を歩み、功徳を積み重ねていくことができるのです。そのことを押さえ、身心を調えながら、毎日を過ごしていきたいものです。