第39回「調心D ―もっとも大切なこと―」


大仏事大造営(だいぶつじだいぞうえい)は最も善事為(ぜんじた)りと(いえど)も、
坐禅を専らにする人は之を修すべからず。説法、教化(きょうけ)を好むことを得ざれ、散心乱念(さんしんらんねん)これよりして起る。
多衆
(たしゅ)
好楽(こうぎょう)し、弟子を貪求(どんぐ)することを得ざれ。
多行多学
(たぎょうたがく)
することを得ざれ。
極明(ごくみょう)極暗(ごくあん)極寒(ごくかん)極熱(ごくねつ)乃至(ないし)遊人(ゆうにん)戯女(けにょ)(ところ)
(ならび)
打坐(たざ)すること(なか)れ。

大仏事大造営(立派な大伽藍を建立すること)は、仏法の繁栄や寺院の存続につながるという点では、善き行いであることには変わりありません。しかし、瑩山禅師様は、仏道修行者は何よりも坐禅修行を最優先することが重要であるとお示しになっています。日々の坐禅あっての大仏事大造営であり、坐禅抜きの伽藍建立は本末転倒も甚だしく、散心乱念(心が乱れること)してしまうと、瑩山禅師様は警笛を発していらっしゃるのです。

道元禅師様がお弟子様方にお話になられた逸話が筆録されている「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」を紐解きますと、道元禅師様より中国・唐の太宗のエピソードが語られています。太宗は即位後も破損の激しい宮殿に住んでいらっしゃいました。そこで、臣下の者たちが宮殿の新築を提案したところ、「現段階での宮殿新築は農繁期で多忙な人民たちを困らせることになるから、一段落した秋に行おう」とおっしゃって、古い宮殿に住み続けたというのです。国の人々に目線を合わせ、その日常生活を十分に理解しながら政治に携わる太宗は、一国家の統治という政治の道をひたすら歩むホンモノの政治家なのです。そんな太宗のように、仏道修行者たるもの、まずは仏道をしっかりと歩み、坐禅を“やって、やって、やり続ける”ことから、全てが始まることを再確認し、肝に銘じておきたいものです。

次に「説法、教化を好むことを得ざれ」とあります。大仏事大造営同様、説法や教化(布教)も、行為そのものは善事ですが、やはり、日々の坐禅を抜きにした説法や布教はあり得ないと、瑩山禅師様はおっしゃっています。

この点につきましては、私自身、よくよく肝に銘じておかねばならないと思っています。布教の道を歩み始めた頃、説法がしたいという気持ちばかりが強く、依頼があれば、喜んで引き受けておりました。しかし、回数を重ねるうちに、「自分の説法は中身の濃いものなのか」とか、「禅の味わいはあるのか」ということを感じるようになりました。それは年齢を重ねればクリアできることなのか、様々な経験を積み重ねればいいのか、色々と悩み、試行錯誤を繰り返しましたが、どうやら、年齢や経験の問題ではなさそうです。そんな中で、辿り着いたのが、今回の瑩山禅師様のお示しです。年齢や経験もさることながら、まずは坐禅を“やって、やって、やり続ける”ことが大切であり、そこから説法が生み出されるということなのです。

そうやって坐禅に向き合い、坐禅を行じている禅僧の下に、大勢の修行僧が集まってくることは、これまでの仏教の歴史が証明しています。お釈迦様もそうでしたし、道元様も瑩山様も同じです。伽藍の規模やそこに携わる人数の多少等、見た目の情報に左右されず、禅の道を歩み続けるホンモノの指導者の下に人は集うのです。それが「多衆を好楽し、弟子を貪求することを得ざれ。多行多学することを得ざれ」の意味するところです。

そして、坐禅をする場所として、明暗もしくは、寒暖の極端な場所、遊び心に火がつくような場所等は相応しくないと瑩山禅師様はお示しになっています。それは、これまでも述べられてきたことですが、再度、確認しておきたいところです。