第48回「有力(うりき)大人(だいにん) ―“忍”を体得する―」


忍の徳たること、持戒苦行(じかいくぎょう)も及ぶこと(あた)わざる所なり、()く忍を(ぎょう)ずる者は(すなわ)(なづ)けて有力(うりき)大人(だいにん)となすべし。


知人と歓談しておりましたところ、毎週日曜日に北國新聞に掲載される「ほくりく散歩道」の話題となりました。これは、石川県出身の作家・子母澤類(しもざわるい)さんが北陸の様々な名所を訪れた折の体験談等を通じて、その地の魅力などを紹介するコラムです。先日は「大本山總持寺(そうじじ)祖院(そいん)」(曹洞宗・石川県輪島市)が紹介されていました。總持寺は1321年に太祖(たいそ)瑩山(けいざん)禅師様がお開きになった福井県の永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山です。1898年(明治31年)の火災で全山が焼失し、これを機に現地(横浜市鶴見区)に移転して100年余り。輪島の地には“跡地”を意味する「祖院」という言葉が付されたお寺が建てられ、現在も数十名の修行僧仏道修行に励んでいます。

そんな總持寺祖院で、ある早春の肌寒い日の朝、子母澤さんは朝課(ちょうか)(修行僧たちの朝の勤行)に参加されたそうです。厳しい寒さに耐えながら朝課に参加する子母澤さんの目に映るのは、極寒の本堂で寒さを面に出すことなく読経に励む僧侶方の姿でした。そんな光景に感銘を受けた子母澤さんでしたが、朝課が終わって、廊下を歩いていると、回路が落ちているのに気づかれたそうです。「お坊さんも寒いのだな、とにんまりしながら、修行の厳しさを身近に感じた」と子母澤さんは、そのときの感想を率直に綴っていらっしゃいました。

修行僧について、子母澤さんのような見解をお持ちの方は大勢いらっしゃいます。これは、雪が降りしきる中、あるいは、太陽が燦燦と照り付ける中、寒さ・暑さをおくびにも出さずに過せるのは厳しい修行のなせる業だという捉え方です。ですから、僧侶が厳しい寒さの中、カイロを持って修行をしている姿に意外性を感じるのも合点がいきます。

こうした「仏道修行とは苦しみに耐え抜くことである」という一つの見解に対して、お釈迦様がお示しになっている仏道修行について触れられているのが、今回の一句です。忍という言葉が出てまいります。耐え忍ぶという意味を持った言葉で、仏教でも「忍辱(にんにく)」というみ教えもあります。

しかし、耐え忍ぶという字面通りの解釈でいくと、次の「持戒苦行も及ぶこと能わざる所なり」の内容と矛盾してきます。苦行とは自分の肉体を痛めつけるなどして、欲望を断ち、耐え抜くことを目的とした行です。出家間もないお釈迦様は6年間もの間、苦行に励んできました。しかし。お釈迦様はいくら苦行に励んで心の安楽を得られませんでした。苦行は自己を苦しめるだけで、何の解決にもならないことは、お釈迦様が実体験で証明なさっています。そんな苦行よりも徳のある忍とは何かを考えてみたとき、「耐え忍ぶ」というよりは、「受け入れる」とか、「認める」という解釈が妥当であることに気づかされるのです。

人間誰しも有する三毒煩悩の一つに「愚かさ」があります。何よりもの愚かさはこの世の道理を認めないことでした。時間の流れが存在しているがゆえに万事が変化していくこと。自分とは異質の存在と関わっていかねばならないがゆえに思い通りにならないこと。そうしたこの世の現実や道理を素直に受け入れ、認めていくことが「忍」なのです。

そして、そうした「忍」が体得できている人間を「有力の大人」であるとお釈迦様は断じてらっしゃいます。これは力量のある偉大な人物を意味しています。仏道修行とは、寒い日には寒さに耐え、暑い日には暑さに耐えられるといった、苦難に強い人を育てるためのものではありません。自分がご縁をいただいて生かされているこの娑婆世界(忍土(にんど)ともいう)の仕組み・道理を認め、冷静に対処できるようになることが、仏道修行なのです。すなわち、寒い日は寒いのを認め、不満を言動に表すことがないようにしていくということなのです。

現実は私見を交え、不満を表出させるものではなく、受け入れていくものであることを我が身に念じ、「有力の大人」を目指していきたいものです。