第40回「坐禅に適した環境 ―“
緑水青山是
極端に明るかったり、暗かったりする場所(極明、極暗)や極端に熱かったり、寒かったりする場所(極寒、極熱)、
では、どんな場所ならば坐禅に相応しいのでしょうか。それが今回の一句です。
まず、瑩山禅師様は「叢林」を挙げています。叢林は禅僧が集い、坐禅修行する道場です。これは確かにその通りだと思います。私は18年前に大本山總持寺(横浜市)で1年間修行させていただきましたが、振り返ってみますと、叢林である總持寺の一日のカリキュラムと、そこに集う仲間の存在があったからこそ、確実に坐禅修行をさせていただいたように思います。叢林を離れ、一寺院の住職になってみると、中々、上手くいかないことを反省させられるばかりです。定まったカリキュラムと志同じくした仲間がいる叢林だからこそ、坐禅修行が不断に続いていくと強く感じるのです。
次に瑩山禅師様が掲げていらっしゃるのが「善知識」です。これも前段にありますように、「ホンモノの指導者」を指しています。曹洞宗の梅花流詠讃歌の作詞に尽力された
洞松寺様にお伺いした方によれば、山間の集落からさらに山奥に登り進んでいくと、洞松寺様があるそうです。まさに「深山幽谷」とは、こういう環境を指すのでしょう。大自然に囲まれた静かな環境は、日々のストレスフルな生活を忘れさせてくれると共に、疲れ切った身心を調えるには最高の環境です。「依止」とありますが、帰依(自ら相手に我が身を委ねること)して、そのまま止まる(離れない)ことです。善知識のいる静かな叢林こそが、坐禅修行に最適な環境であり、そうした空間に我が身を置いて、依止することによって、これまで多くの祖師方が誕生してきたように思います。
さらに、「緑水青山」、「谿邊樹下」とあります。これらは深山幽谷を言い換えたものであり、具体的に表現したものであると捉えてもよろしいかと思います。谿は谷のことで、大自然から豊富に水が湧き出る様が思い浮かべられます。そうした場所に身を置くと、私たちの心が澄みきったものになっていきます。「経行」は専ら「歩く坐禅」と言われるように、坐禅中に一度、立ち上がって、しばしゆっくりと歩きながら、足のしびれを取る所作を意味しています。ここでは、坐禅と同義で捉え、緑水青山が坐禅の環境に相応しいという意で解釈すべきでしょう。