第40回「坐禅に適した環境 ―“深山幽谷(しんざんゆうこく)叢林(そうりん)善知識(ぜんちしき)”が教えてくれたこと―


叢林(そうりん)(うち)善知識(ぜんちしき)の処、深山幽谷(しんざんゆうこく)之れに依止(えし)すべし。
緑水青山是
(しょくすいせいざんこ)
経行(きんひん)(ところ)谿邊樹下(けいへんじゅげ)是れ澄心(ちょうしん)の処なり。


極端に明るかったり、暗かったりする場所(極明、極暗)や極端に熱かったり、寒かったりする場所(極寒、極熱)、遊び心が生じやすい場所(遊人・戯女)(ところ))が、坐禅修行に相応しくない場所であるというのが前段の内容でした。

では、どんな場所ならば坐禅に相応しいのでしょうか。それが今回の一句です。

まず、瑩山禅師様は「叢林」を挙げています。叢林は禅僧が集い、坐禅修行する道場です。これは確かにその通りだと思います。私は18年前に大本山總持寺(横浜市)で1年間修行させていただきましたが、振り返ってみますと、叢林である總持寺の一日のカリキュラムと、そこに集う仲間の存在があったからこそ、確実に坐禅修行をさせていただいたように思います。叢林を離れ、一寺院の住職になってみると、中々、上手くいかないことを反省させられるばかりです。定まったカリキュラムと志同じくした仲間がいる叢林だからこそ、坐禅修行が不断に続いていくと強く感じるのです。

次に瑩山禅師様が掲げていらっしゃるのが「善知識」です。これも前段にありますように、「ホンモノの指導者」を指しています。曹洞宗の梅花流詠讃歌の作詞に尽力された赤松月船(あかまつげっせん)老師(1897−1997)も住職をおつとめになり、近年は修行道場として二十数名の修行僧が修行に励んでいる洞松寺(とうしょうじ)様(岡山県)から、全国の曹洞宗寺院宛に「洞松寺報・蒼龍」という通信誌が送付されてきます。先日、お送りいただいた第16号に目を通しておりますと、洞松寺様では、日本のみならず、他国からも修行者が集い、日々の仏道修行が営まれているそうです。そんな修行者たちが日々の修行を通じて感じておられることを記されていました。その中で、何名かの方が洞松寺堂頭(どうちょう)(住職)老師に帰依している(慕っている)お気持ちを認めているのです。私はそれらを拝見しながら、洞松寺様は「善知識」がいらっしゃる叢林であり、だからこそ、世界中から仏道修行者が集ってくるのだろうと感じたのです。そんな洞松寺様は非常に魅力的な叢林に思えます。

洞松寺様にお伺いした方によれば、山間の集落からさらに山奥に登り進んでいくと、洞松寺様があるそうです。まさに「深山幽谷」とは、こういう環境を指すのでしょう。大自然に囲まれた静かな環境は、日々のストレスフルな生活を忘れさせてくれると共に、疲れ切った身心を調えるには最高の環境です。「依止」とありますが、帰依(自ら相手に我が身を委ねること)して、そのまま止まる(離れない)ことです。善知識のいる静かな叢林こそが、坐禅修行に最適な環境であり、そうした空間に我が身を置いて、依止することによって、これまで多くの祖師方が誕生してきたように思います。

さらに、「緑水青山」、「谿邊樹下」とあります。これらは深山幽谷を言い換えたものであり、具体的に表現したものであると捉えてもよろしいかと思います。谿は谷のことで、大自然から豊富に水が湧き出る様が思い浮かべられます。そうした場所に身を置くと、私たちの心が澄みきったものになっていきます。「経行」は専ら「歩く坐禅」と言われるように、坐禅中に一度、立ち上がって、しばしゆっくりと歩きながら、足のしびれを取る所作を意味しています。ここでは、坐禅と同義で捉え、緑水青山が坐禅の環境に相応しいという意で解釈すべきでしょう。