第16回 「
お互いの意気が合うタイミングで
共に御仏のお悟りに近づけるように
今回は、以前、当HPの掲示板に諸行無常様がご投稿くださった「啐琢同時」を味わってみたいと思います。これは、お互いの思いが同じ状態であることを意味する禅語です。「啐」は、卵の中から雛が殻をつついて、もうすぐ生まれることを知らしめる様を、「啄」は、親鳥が雛の様子に気づき、「出ておいで」と、くちばしで卵の殻をつつく様を表しています。そうした「啐」と「啄」の働きが合致して、雛が生まれ、元気に育っていくのです。タイミングが早すぎるもの、遅すぎてもよくありません。双方にとって、ちょうどいい具合がベストで、それを「同時」と表現しています。
私たちの日常生活を振り返ってみたとき、「啐琢同時」が指し示すような相手と自分のタイミングがピッタリ合致する場面というのは、お互いに意識し合わない限り、難しいのではないかという気がします。自分は相手によかれと思って言葉や行動を提示したはずが、相手にその思いが伝わっていなかったという経験は誰しもあります。こんなとき、「相手のためにと思って、してやったのに」などと思い、ちょっと損をしたような気分になってしまうこともあります。
しかし、よくよく考えてみたいものです。自分にとっていいと感じることを、必ずしも相手が良しとは感じないということです。相手の幸せを願い、行動を発することは大切ですが、それが本当に相手を喜ばせるのか、相手のためになっているのかをよくよく考えていきたいものです。そうすることが「啐琢同時」なのです。
この言葉を意識しながら、少しでも相手の願いに近い言葉を選び、行動を発していきたいものです。相手の反応を十分に確かめることなく、自分がやりたいこと、自分のできることだけを通していくのは、相手への押しつけになりかねません。相手の考えを受け止めようとせず、自分の意見だけを主張するのも同じです。お互いに相手の様子を確かめ合いながら、言葉や行いを提示し、共に御仏のお悟りに近づけるようにしていきたいものです。