第49回「甘露(かんろ)を飲む ―“有力(うりき)の大人”を目指して―」


()()悪罵(おめ)の毒を歓喜(かんぎ)忍受(にんじゅ)して、
甘露
(かんろ)
を飲むが如くすること(あた)ざるものは、入道智慧(にゅうどうちえ)の人と名づけず。


「忍」というのは、「耐え忍ぶ」とか、「我慢する」といった捉え方をするよりも、現実を受け止めていくという解釈をすべきであるというのが、前段でのみ教えでした。私見(自分勝手なものの見方・考え方)を混ぜ込むことなく、事実を事実のままに捉えながら、たとえ自分の思い通りにいかなかったとしても、不平不満を言葉や態度に表さないようにしていくことができる人間を、お釈迦様は「有力の大人」とお示しになっています。そんな人間性を是非、身につけていきたいものです。

そんな「有力の大人」について、今回の一句は、もう少し具体的に捉えていくために読み味わっておきたいものであります。まず、「悪罵の毒を歓喜し忍受して、甘露を飲むが如くすること」とあります。悪罵(自分に対する文句や罵り)は、深く心を傷つけられるものであり、できるだけ避けたいものです。しかし、お釈迦様は、たとえ悪罵であたっとしても、歓喜(喜んでいただくこと)し、忍受(受け入れること)するようにとおっしゃっています。「甘露」とは、不死を得る飲料水で、それを比喩化して、涅槃(悟りの境地)を意味する言葉として使われています。「たとえ自分にとって、耳障りで辛辣なことであっても、悟りに到達する飲み物と捉えて、喜んで飲み込むことができなければ、入道智慧(悟りを得た人)の人とは言えない」とお釈迦様はおっしゃっているのです。そして、そうした人間が「有力の大人」ということなのです。

ここで、みどり園(仮名)における「通信誌」作成にまつわるエピソードをご紹介させていただきます。あるとき、園の業務内容を世間の人々にお伝えすべく、園だよりの作成が提案され、上田次長(仮名)を中心とした4名の職員チームが誕生。そのチームを中心に、年に2回の発刊を目指し、スタートしました。3年後、年に2回の発刊は守られてきたのですが、上田次長中心に職員の息切れが始まりました。自分たちの業務外での園だより作成に対する負担、ネタ切れ等、息切れの理由は幾多もありました。しかし、上田次長の中には「何とかしてこの閉塞的な状況を打破し、読みごたえのある園たよりを作りたい。」という思いがありました。そのためには、これまでのたより作成の過程で何か不備はなかったか、頭を悩ましていた上田次長に声をかけてくれたのは、前職で通信誌作成の経験がある部下の職員・田中さん(仮名)でした。


田中さんは多少、歯に衣着せぬ言葉を発しながらも、上司である次長に園だよりの問題点や改善方法を訴えました。多少耳障りが悪く思える田中さんの言葉でしたが、上田次長は一句一時聞き漏らすことなく、しっかりと耳を傾けて聞きました。上田次長は耳に痛い言葉も黙って受け止めると共に、自分が上司だとか、相手が部下だとか上下を意識するような差別的な捉え方さえもありません。田中さんの意見に対して、即座に対応するのは難しいとはいえ、上田次長は一つ一つ受け止めながら、よりよい通信誌作成に向けて、再出発する決意ができたのです。

こうした上田次長のような生き様が「有力の大人」なのです。そして、「有力の大人」は、辛いことも苦しいことも、全てを大切なご縁と受け止めることができるので、常に成長していくのです。そうやって、仏の世界に入り、智慧(仏のものの見方・考え方)が身についていくのです。