第50回「
好名聞
当に知るべし、
常に当に防護して、
前段で「
ところが、そうでない人間は「瞋恚の害」を発生させてしまいます。そうなるとどうなっていくのでしょうか。まず「諸の善法を破る」とお釈迦様はおっしゃいます。すなわち、たった一回の怒りであったとしても、その影響を受け、これまで積み重ねてきたものが全て崩れ去っていくとお釈迦様はお示しになっています。「好名聞」とは、世間によき評判が広まることで、それも、たった一回の怒りによって壊れてしまうとお釈迦様はお示しになっています。
これはいつの時代にも当てはまることです。昔も今も、頻繁に怒りの感情を表出させる者との関わりは誰もが避けることを願うでしょう。恐らく、この先もそうでしょう。それが「今世後世の人、見んことを喜わず」の意味するところです。
そのことをも踏まえた上で、「当に知るべし」とお釈迦様は私たちに強く伝えようとなさいます。「瞋心は猛火よりも甚だし」と―瞋恚の害は大火以上の脅威であるというのです。だからこそ、「常に防護して入ることを得せしむること勿るべし」なのです。誰もが火災が起こらないよう、火に注意しますが、それと同じように、瞋りの感情で周囲を焼き尽くすことのないようにとお釈迦様は我々に願っていらっしゃるのです。
金沢市内には子どもの火遊びによって、本堂と500体の仏様が全焼したご寺院様がございます。本堂の復興だけでも至難の業でしょうが、加えて500体の仏様の復興もあるので、大変なことは想像に難くありません。そんな一大事業を当時のご住職様とお弟子様(次期ご住職様)が中心となって、檀信徒の方々のお力もお借りしながら、25年で見事に成し遂げられ、今に至るとのことです。このエピソードを耳にする度に、私は大きな感銘を覚えると共に、火災の恐ろしさ、伽藍復興の大変さが身に染みるのですが、猛火という災害から完全に元に戻るにも多くの労力と長い歳月が必要となるのに、瞋恚による害からの復興、好名聞の再取得というのは、並大抵のものではありません。むしろ、不可能であるというくらいに捉えておいた方がよろしいようにも思います。
となると、私たちはどうすればいいのでしょうか。答えは一つです。「怒りの感情を言葉や態度に出さないように気をつけていく」のです。中々、難しいことではありますが、私自身、これを我が身に十分に刷り込みながら、毎日の生活の中で留意していきたいと思っています。