第41回「無常を観ずる」
無常を観じて忘るべからず、是れ探道の心を励ますなり。
「この世は万事、諸行無常であることを忘れてはならない。それが私たちの仏の道を求める心を励ましてくれるのである」と瑩山禅師様はおっしゃっています。「諸行無常」とは、この世に存在するものは、変化を繰り返し、やがては消滅していくということです。
このことが自分の中で理解し、納得できているかどうかによって、それぞれの人生に大きな違いが出てくるのは確かです。諸行無常が体得できている者は恐れるものもなく、冷静で堂々としているばかりか、欲望は調整されており、瞋りの感情を面に出すにすることもありません。逆に諸行無常の道理を認めず、自分の考えを優先してしまう者は、実はいつも何かに怯えながら過しているので、冷静に対処することを不得手としています。そもそも仏教では、「
この「諸行無常の理解・体得」を「無常観」と申します。“観”は
思えば、お釈迦様は青年期、お城の東西南北の四つの門で生老病死の苦悩と向き合う人々の姿を目の当たりにし、出家を志し、坐禅によって悟りを得ました。また、道元禅師も三歳のときに父親を、八歳のときに母親を亡くし、十三歳にて出家されました。いずれも「無常観」の体得がきっかけとなった出家であり、悟りであるということです。言い換えれば、無常観を体得したことで、身心に救いがもたらされたということでもあります。
7月に入り、梅雨の猛威が九州を襲いました。気象庁が「令和2年7月豪雨」と命名した今回の災害でも多くの尊いいのちが失われました。昨日まで、災害が発生するほんの1時間前までは元気だった方のいのちが、一瞬にして、露の如く消えていくという現実の様相です。志村けんさんのように、新型コロナウイルスに感染して亡くなった方もいらっしゃいました。また、ガンなどの重病を患い、医師の余命宣告を受け止めながら、亡くなった方いらっしゃいます。私たちはいつ何が起こり、どうなるかわからないいのちを生かされているのです。そのことをしっかりと再確認し、人との出会い、普段関わっている方との関わりといった、一つ一つのご縁が「最期のものかもしれない」くらいに捉え、お互いに安心できるような言葉や行いを発し合いながら過ごしていきたいものです。