第43回「真の禅者 ―“慢”の自覚―」
常に大慈大悲に住して、坐禅無量の功徳を一切衆生に回向せよ。憍慢、我慢、法を生ぜしむること莫れ。此れは是れ外道凡夫の法なり。
―「常に大慈大悲に住して、坐禅無量の功徳を一切衆生に回向せよ」―
この瑩山禅師様のみ教えは、これまで曹洞宗管長様(包括宗教法人曹洞宗の代表役員)の告諭(お言葉)にも引用されてきた大切な一句です。これは「坐禅によって身心を調えながら、周囲のいのち(一切衆生)に対して、常日頃から楽を与え(慈)、苦しみから救う(悲)を心がけて関わっていく」ことを願ったもので、「大慈大悲の坐禅」と呼ばれるものです。瑩山禅師様は坐禅に秘められた無量(計り知れないくらい多大なるもの)の功徳を周囲のいのちに巡らせ、分け与えていくことを「回向」という言葉を用いて表現なさっています。
回向は法事や葬儀などで読経した後にお唱えしますが、そこには読経の功徳を亡き人始め、全てのいのちに巡らせながら、仏のお悟りの世界に入らしめるという意味があります。法要では「維那」という、修行僧の指導・監督役の僧侶が回向をお唱えしますが、そのお声が朗々としていると、ありがたみを覚え、まるで悟りの世界に誘い込まれるような感覚になります。前回、坐禅修行をする道場を調えるというお話がありましたが、維那が調った声で朗々と回向文を読み上げるのも、坐禅を根底においた日頃の仏道修行の賜物なのです。
そうした日頃の坐禅修行によって調えられた身心を使って、周囲に慈悲に満ちた言葉や行いを発していくことが「坐禅無量の功徳を一切衆生に回向する」ということであり、これが真の禅者のあり方です。しかし、瑩山禅師様が「念息不調の病」とおっしゃったように、どうしても坐禅初心者の外道凡夫は、ついつい「悟ったような気」になって、坐禅修行に励む自分とそうでない他者を比較し、尊大ぶって、相手を見下してしまうようです。これが「慢」という精神状態です。憍慢は自分を称揚して驕り高ぶることで、我慢は「自分が絶対」と思い込み、横柄な言動を発することです。
以前、ある僧侶の会合で、参加者の僧が、他の僧侶方に向かって、「どうせ、皆さんは坐禅をしていないでしょう」といった言葉を発したという話を聞いたことがありますが、これぞ「慢」の言動であり、いくら坐禅に親しんでいたとしても、真の禅者とは言えません。坐禅によって、「慢」が生ずるのであれば、坐禅をしない方がマシですし、何よりもお釈迦様始め道元禅師様や瑩山禅師様にもご無礼を働いていることになりかねません。よくよく自らの“慢”に留意しながら、日々を過ごしていきたいものです。
そして、真の禅者のあり方を通じて、今一度、我々一人一人が、自らの“慢”と向き合い、「慢」になっていないかどうか、よくよく確認し、言葉態度を謙虚に慎んでいくことを願うのです。