第6回 「今を大切に ―諸行無常のいのち、どう生きる?―」



無無明(むむみょう)
亦無無明尽(むむみょうじん)
乃至無老死(ないしむろうし)
亦無老死尽(やくむろうしじん)


諸行無常(しょぎょうむじょう)(万事が絶えず変化する)」という道理があるにも関わらず、自分の考えにとらわれ、無変化を望むこと―そうした我々がこの世の道理に対して暗い(道理を認めようとしない)ことを「無明(むみょう)」と申します。私たちが少しでも万物が変化することを自分の考えに左右されずに受け止めていければ、心が迷いやこだわりのない自由な状態となっていくのです。そうした心が晴れ晴れとしている状態を「無無明(むむみょう)」というのです。

「諸行無常」の原因は、この世に永遠不滅のものがないからです。般若心経では、それを「(くう)」と表現しています。空であるが故に、固定された変化しないものは存在しません。それゆえ、「万事は実体がない」という解釈につながっていくのですが、だから、「生もなければ、滅もない。垢つかず浄からず。増さず、減らず」という考え方が提示されるのです。

それを踏まえた上で、「無無明尽(むむみょうじん)」を味わっていきます。無常を観じ取っている限り、「無明」という、心が晴れ晴れとした状態が維持されるのですが、そういう状態は決して、最初から身についているものではありません。仏道修行によって身につくものです。もし、最初から身についていれば、諸行無常ゆえに変化するとか、実体がないということを、敢えて説明する必要はありません。諸行無常ゆえに、精進すれば成長という変化が起こるわけです。ですから、無明を断ち切ったからといって、必要以上に肯定されたり、無明だからといって、むやみに批判されたりするものでもないということで、それが「無無明尽」の意味するところなのです。

さらに、「無老死(むろうし)」、「無老死尽(むろうしじん)」へと展開しますが、一度、「生老病死」を押さえておきたいと思います。

苦悩から逃れることのできぬ人間世界にいのちをいただいた苦しみ。
諸行無常という道理の中で老いていく苦しみ。
病を受け入れていかなければならぬ苦しみ。
いつかは死を迎えるという現実を受け止めていかねばならぬ苦しみ。

こうした「生老病死」のみ教えを踏まえた上で、「無老死」や「無老死尽」を味わっていくと、一つにはこの世の道理に対して、あれこれ拘らずに、受け止めていってほしいという積極的な願いが込められているように感じます。その反面で、いつの時代も人間は「生老病死」に悩み、苦しみながら生きているという現実も受け止めていきたいという願いも感じ取れます。すべては「空(実体がない)」であるがゆえに、そうした多面的な観方につながっていくような気がします。そして、そのいずれかを限定的に正解とする捉え方をするのではなく、全てが正しいという多面的な捉え方をしていく必要性があるように思います。

そうした、いつ何が起こり、どうなるかわからない「諸行無常のいのち」を生かされている私たちが、その事実をどう捉え、どうやって毎日を過ごしていけばいいのでしょうか。その解答として、「今を精一杯、生きていこう」と捉えて過ごしていくことを提示させていただきます。「いつか必ず老いや死といった苦しみが訪れるのなら、元気な今、できることを精一杯やっておこう」という積極的な姿勢で生きていくことが大切だということです。

「今を大切に生きる」ことで、いざ“老”や“死”を迎えるときが来ても、多少は苦しみを和らげることができると考えます。それは、今という与えられた時間を無駄に浪費せず、大切に生かして使うということなのです