第51回「人を導く」


功徳を(かす)むるの賊は瞋恚(しんい)に過ぎたるは無し。
白衣受欲非行道
(びゃくえじゅよくひぎょうどう)
の人、法として自ら制すること無きすら、瞋猶(しんな)(なだ)むべし。


いくら善行を重ね、好評判を得ていたとしても、たった一回の“怒り”によって、一瞬して崩れ去っていくことがあるとお釈迦様はおっしゃいます。「功徳を劫むるの賊」とありますが、“劫”には、“劫略(ごうりゃく)”という言葉があるように、奪い去っていくという意味があります。あたかも盗賊が宝物を奪い去ったり、凶悪殺人犯が自分の感情をコントロールできず、他者のいのちを奪い取るようなもので、怒りの感情を表出させることは、他者を苦しめ、恐怖感を与えるものであることを、私たちは肝に銘じておかなくてはなりません。

次に「白衣受欲非行道の人」とあります。これは一言で申し上げるならば、「在家の方」です。インドでは行道の人(仏道修行者)が色のついた着物を着るのに対して、非行道の人(在家の方)は白い着物を着ていたそうです。そこから白衣は在家を指すわけですが、そうした一般在家の方が自分を制することなく、怒りの感情を表出させることは、大目に見てもよいだとお釈迦様はお示しになっています。“恕”は、“同情”だとか、“寛大な対応”ということです。

そうした出家と在家で違いが生ずるのは、やはり、出家者には戒律(かいりつ)という守るべきものがあるからでしょう。曹洞宗における十六条戒(じゅうろくじょうかい)の中に「不瞋恚戒(ふしんにかい)」があることを、今一度、再確認しておきたいところです。出家者たる者、解放を順守できてこそ、その名に相応しい人材と言えます。そして、在家の方は、そんな出家者の姿を見習いながら、感情の調整を心がけていただければよろしいかと思います。

実際に自らの感情を調整し、怒りを表出させないようにしていくことは、そう容易いことではありません。特に何度注意しても道を踏み間違える人間には、多少、厳しい言葉や態度を用いなければ、改善していかないのも確かです。

しかし、本当はそうした怒りの感情に頼っていても、人を導くことはできないのです。自分の仏法を行ずる姿で、周囲を正しい方向に導けるようになることがベストなのです。自分の修行不足のために、自らの生き方で人を導くのが難しいからと、ついつい怒りの感情に頼るのかもしれませんが、それではいけません。自らの生き様を調えながら、周囲を導いていくことで、自他共に仏に近づいていくことを願うのです。