第44回「参禅の要術」


誓って煩悩を断じ、誓って菩提(ぼだい)を証せんことを念じて、只管打坐(しかんたざ)して一切不為(いっさいふい)なる、是れ参禅(さんぜん)要術(ようじゅつ)なり


道元禅師様の師であります天童如浄(てんどうにょじょう)禅師様が「参禅は坐禅なり」とお示しになったことを受け、両祖様(道元様・瑩山様)も「参禅」という言葉をお使いになっています。

参禅とは坐禅ではありますが、内山興正(うちやまこうしょう)老師(1912−1998)のお言葉をお借りするならば、「参禅」の「参」には、“参る”という意味があるように、参禅は坐禅のみ教えに自分の標準を合わせていくことであり、坐禅に帰依することを意味しています。そこでは、自分の考えや都合というものが入り込む余地はありません。坐禅が絶対であり、坐禅に自分を合わせながら、物事を捉えていくことが求められます。

そんな、お釈迦様から脈々と伝わる曹洞宗の坐禅(只管打坐)を瑩山禅師様は今回の一句において、「一切不為」という言葉で言い表しています。それは自分たちの行いが及ばない、作為を離れた脱落の行であるということです。何も持ち込まず、何も採り入れることなく、我が身を全て坐禅に委ね、ただひたすらに(只管)坐り続けるのが、参禅という坐禅なのです。

そうした何も持ち込まない行だからこそ、「坐禅は無の境地で行う」といった見解が出てくるのでしょう。これは「坐禅中は思考を止めなければならない」と捉えられがちですが、それは誤解です。頭の中に何か考えが浮かび上がって来ても、そこに引きずられ、あれこれ考え事をしながら時を過ごすのではなく、我が身心を調えることを念じて、坐るのです。そうやっていくうちに、心の中の一切の煩悩が調整され、菩提(悟り)というものに近づいていくのです。それが「参禅の要術」なのです。