第44回「参禅の要術」
誓って煩悩を断じ、誓って
道元禅師様の師であります
参禅とは坐禅ではありますが、
そんな、お釈迦様から脈々と伝わる曹洞宗の坐禅(只管打坐)を瑩山禅師様は今回の一句において、「一切不為」という言葉で言い表しています。それは自分たちの行いが及ばない、作為を離れた脱落の行であるということです。何も持ち込まず、何も採り入れることなく、我が身を全て坐禅に委ね、ただひたすらに(只管)坐り続けるのが、参禅という坐禅なのです。
そうした何も持ち込まない行だからこそ、「坐禅は無の境地で行う」といった見解が出てくるのでしょう。これは「坐禅中は思考を止めなければならない」と捉えられがちですが、それは誤解です。頭の中に何か考えが浮かび上がって来ても、そこに引きずられ、あれこれ考え事をしながら時を過ごすのではなく、我が身心を調えることを念じて、坐るのです。そうやっていくうちに、心の中の一切の煩悩が調整され、菩提(悟り)というものに近づいていくのです。それが「参禅の要術」なのです。