第52回「(いか)りと向き合う ―清涼(しょうりょう)の雲に霹靂(へきれき)の害!―」


出家行道無欲(しゅっけぎょうどうむよく)の人にして、而も瞋恚(しんい)(いだ)けるは甚だ不可なり。
譬えば清涼(しょうりょう)の雲の中に霹靂火(びゃくりゃくひ)を起こすは、所応(しょおう)に非ざるが如し。


お釈迦様のみ教えを受け継ぐ仏弟子たるもの(出家行道無欲の人)、人を教え導く上で、いくら相手が素直にこちらの言葉を聞き入れることができなかろうが、反発してこようが、自らの怒りの感情を表出させることなく、仏の如く仏法を行ずる姿で以て、教え導いていくことが求められるとお釈迦様はおっしゃっています。まさに、「瞋恚(怒りの感情)を懐けるは甚だ不可なり」なのです。

それは、譬えてみるならば、「清涼の雲の中に、霹靂が起こる(急に激しい雷が発生すること)ようなものである」とお釈迦様はおっしゃいます。それまで清々しい青空のように、穏やかな雰囲気が漂っていたところに、突然、怒りの落雷が発生すれば、清々しい空気が一変して、どんよりとした不快な空気が漂い始めます。たとえば、日常会話や会議の場等で、和気あいあいとした雰囲気が漂う中で、誰かが怒り出すことで、空気が乱れ、一瞬にして静まり返ってしまうようなものです。

こうした経験は誰しも味わったことがあるのではないかと思います。その場に相応しい空気がある中で、過度の怒りなど、その場に相応しくない言動は、突如として、その流れを大きく変える力を発揮します。そうした全体の空気を個人の感情だけで一変させてしまうような言動は、出家者としては「所応に非ざるが如し」、慎むべきであるとお釈迦様はおっしゃっているのです。

今回に限らず、こうしたお釈迦様のみ教えに触れたとき、是非、自分自身に引き当てて考えていく習慣を身につけたいものです。自分は周囲の雰囲気を一変させるような言動をとったことがなかったかどうか―。私自身、振り返るに加害者にもなり、被害者にもなったことが思い出されますが、むしろ、加害者の立場に立つことの方が多かったと反省させられるばかりです。

自分の言動一つで、周囲の空気を一変させてしまうことがあります。どうか、自分の中に存在する三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)をきちんと調えて、言葉や行いにして表に出さないようにしていきたいものです。こうして仏遺教経を味わっていくと、お釈迦様がお亡くなりになる直前に、三毒煩悩の中でも、「瞋り」に着目し、その感情を調整することについて、幾度も我々にお示しになっていることに気づかされます。この点を重視し、特に、自分の怒りの感情と向き合いながら、調整していくことを日常生活の中で、習慣化させていきたいものです。