第45回 「
常に目を
法は
令和2年のお盆は、新型コロナウイルスの影響を強く受けて、過去に例を見ない静かなお盆となりました。例年、この時期になると、方々のお寺でお盆のご法要が営まれます。その中で、私は法要後のご法話の依頼をいただき、その準備に時間をかけるのですが、今年は2月以降、夏のお盆まで、大半のご法要が中止となり、法話をつとめさせていただく機会がございませんでした。ちなみに、今年に入ってから私がつとめさせていただいた法話は、現段階で2件、4月以降は皆無の状態が続いています。この状況は、15年前に布教師養成所で研鑽を積ませていただいていた駆け出しの頃の状況と似ており、いささか寂しさを感じ得ないのも確かです。
とは言っても、状況が状況であると共に、困っている方は他にも大勢いらっしゃいます。
さて、こうして私の現況をお話させていただいたのは、今回の一句にも通ずるものがあるからに他なりません。今回は我々のコミュニケーション力を高めていく上で押さえておきたい一句を瑩山禅師様から学ばせていただきますが、その前に、冒頭にある「常に目を濯ひ~世情を捨つべし道情に執すること莫れ」を味わっておきましょう。これはお釈迦様のみ教えを受け継ぐ出家者なり坐禅人たるものは、身心を閑静(穏やかで冷静であること)に調え、威儀整齊(服装等、見た目にも十分に配慮して、調えておくこと)であるようにということです。この点に関しましては、これまで瑩山禅師様が再三に渡ってお示しになってきた身を調えることに他なりません。加えて、世情や道情(俗世間の実情や娯楽)にも捉われないようにというお示しが出ております。この点もこれまで示されてきたことです。
そして、瑩山禅師様は「法を慳むべからずと雖も請せざれば説くこと莫れ」とおっしゃっています。仏弟子たるものが守るべき10個の戒律の中に、「
ただし、それは苦悩故に法(仏のみ教え)を求めるものに対して、法を出し惜しむようなことをしないとか、逆に、法を求めていない人に、半ば強引に法を押し付けるようなことをしないということなのです。これは法を説くものにとって、何よりも注意すべき点です。僧侶の中には「ご法事に行くと、檀信徒に説法をしなくてはならない」と考えている方も大勢いらっしゃるようで、私もご法事は一つの説法の場と思って、法を説くように心がけています。しかし、中には僧侶の説法を望んでいないように見受けられる方もいらっしゃいます。法事の後に予定があって、できるだけ早く終わらせたいという方もいらっしゃいます。また、特に今回のコロナ禍のような状況では、落ち着いて説法を聞こうという気持ちも中々、起こらないようにも思います。そんなときに、僧侶が頼まれもしないのに、相手の状況を知ったような顔をして、得意げに長々と話をするというのは、人々を救うはずの法が却って、人々を苦しめることになりかねません。また、僧侶に対する印象が悪くなる場合もあるでしょう。まさに、瑩山禅師様がおっしゃるように「請せざれば説くこと莫れ」なのです。
そのためにも聴衆の様子をしっかりとお伺いして、法を求める方には時間をかけ、そうでない方には端的に法を説くということが必要になってきます。「三請を守る」とは、「相手の切なる懇願を受ける」ということです。また、「四實」とは「説法の四事」と呼ばれるもので、①示(法を説き示すこと)②教(悪を断ち、善を修することを伝えること)③利(状況を見て法を説き、悩める人々を救うこと)④喜(人々が喜んで法と共に生きるようになること)の4つです。法を説くものは「三請を守って四實に従う」べきであり、そういう姿勢によって、多くの人々が法とご縁を結び、法と共に生きるようになっていくのです。
以前、とある職場の会議で、議題もなく時間があるからと、専門職の方が50分近く話をして、同僚の批判を受けたという話を聞いたことがあります。話し手の専門職の方にとっては、自分が話すことは職場全体に必要なことであり、時間があるときにしっかりと説明したいと考えての行動だったのですが、それは瑩山禅師様がお示しになっている四實の中でも、「利」に対する配慮が欠けていたが故に、同僚に「喜」をもたらすことができなかった事例です。
「三請を守って四實に従う」というのは、僧侶のみならず、日常生活において、大勢の人を前に講演をする方は勿論、家族や友人といった身近な方とのコミュニケーションにも十分に通ずる、大切なみ教えであるような気がします。自分たちのコミュニケーション力アップのためにも、是非、心に留めておきたいみ教えです。