第46回「道人(どうにん)風標(ふうひょう)・道人の用心」

十たび言はんと欲して九たび休し去り、
口邊醭生(こうへんかびしょう)じて臘月(ろうげつ)(せん)の如く、
風鈴(ふうれい)虚空(こくう)(かか)って四方の風を問はざるが如し、
是れ道人の風標(ふうひょう)なり。只法を以て人に貪らず、道を以て己に(たか)ぶらざれ。便ち是れ第一の用心なり


先日、大先輩の方丈様がご自身のfacebookの中で、ご自分の本師様(仏門の世界に導きいれてくれた師匠様)について触れていらっしゃいました。その内容がとてもすばらしく、私自身、自分の日常を反省させていただくと共に、襟元が正されるのを感じたのです。

明治43年生まれの本師様(以下、ご老師とさせていただきます)は、平成18年に93歳でご遷化(せんげ)(お亡くなりになること)になっています。曹洞宗の大本山・總持寺の直末寺(じきまつじ)(ご本山の末寺)の住職として70年、お寺には檀信徒が一軒もなかったそうですが、「法輪(ほうりん)転ずれば食輪(じきりん)転ず。何も心配はいらない。僧侶としてまっすぐに生きていけばいいのだ。」を口癖に、ご本山に帰依し、立派にその末寺住職としての役目を守り抜いてこられたとのことです。

こうしたご老師の生き様からは、多くを語らなくとも、仏のみ教えがにじみ出ているように感じます。そして、それが人々にお釈迦様から伝わる仏法を確実に伝えると共に、苦悩する人々を仏法で救い上げていくのでしょう。だから、ご遷化になって15年近くたった今も、生前、お会いしたことのない私のような若輩和尚の襟元を正し、自己の毎日を振り返る仏縁を与えてくださっているように思います。これが瑩山禅師様のおっしゃる「十たび言はんと欲して九たび休し去る」の意味するところです。それに対して、今の私たちは、ろくに修行もせずに、喋ってばかりいることでしょうか。若かりし頃に、布教師養成所で「布教師はおしゃべりであってはならない」と教わりましたが、この点は、常に自己点検を欠かさないようにしておきたいところです。

この点について、瑩山禅師様は「法を以て人を貪らず、道を以て己に貢ぶらざれ」とおっしゃっています。そして、これは、仏道を歩む人の「道標」であり、「第一の用心」であるともおっしゃっています。道標というのは、道の柱となるものです。用心は“坐禅用心記”というタイトルにもあるように、心構えのことです。布教という仏道修行が役目となり、人様から説法の依頼をいただくと、それを成し遂げるために勉強したり、修行に励んでみたりしますが、それでは、お引き受けした依頼が終われば、次の依頼が来るまで勉強はお休みとか、修行は終わりということになりかねません。それが「法を以て人を貪る」ということなのです。役目を果たすためだけに修行をするのではなく、どんなときも常に仏道修行に邁進していることが、仏道に生きる者の風標であり、第一の用心なのです。

今回、お出ましいただいたご老師は、まさにそうした道標や用心が体得できている「道人」です。そうした先人の生き様に触れさせていただいた仏縁を大切に、今一度、道人の風標と用心を、我が生き様に反映させていきたいものです。「口邊醭生じて臘月の扇の如く、風鈴の虚空に懸って四方の風を問はざるが如し」とあります。無用なことに気を取られて、おしゃべりが過ぎないよう、黙々とお釈迦様から伝わる仏の道を歩んでこそ、仏道に生きる人なのです。