第47回「三徳で三毒を断つ」
道元禅師様の「普勧坐禅儀」と瑩山禅師様の「坐禅用心記」は、それそれ曹洞宗の両祖様が書き遺された坐禅の代表作とも言うべき一冊です。これらを読み味わわせていただくとき、一句一句ににじみ出ている仏法に感銘を受けると共に、凡夫たる私の襟元を正して下さっています。只々、仏縁に感謝するばかりです。
こうした経典に触れ、坐禅のみ教えを学ばせていただきながら、坐禅という行を修し続けてくと、教と行が一体化して、より一層、坐禅を深く味わえるような気がします。そして、それが悟り(証)へとつながっていくのではないかという気がします。
瑩山禅師様は「そもそも坐禅は教(み教え)・行(修行)・証(悟り)に干かるに非ず」とお示しになっています。「干かる」というのは、“干渉”という言葉がございますが、お互いに関わり合いながらも、相手を閣下と思い込んで指図してみたり、妨害してみたりすることです。続けて瑩山禅師様は、「此の三徳を兼ねたり」とお示しになっていますが、そもそも坐禅は教・行・証の全てを兼ね備えたものなのです。坐禅には教えがあり、修行があり、悟りの3つの徳分が備わっており、どれか一つでも欠けていたのでは、坐禅は成立しません。
そもそも教・行・証の三者には、上下・優劣の差など存在しません。「三徳を兼ねたり」とあるように、三者は平等な存在として、関わり合っていると瑩山禅師様はおっしゃっているのです。だから、お互いに干渉し合い、妨害し合うようなことなどしないのであり、それが「干するに非ず」ということなのです。
教・行・証の三徳を兼ね備えた坐禅に触れながら、我が身心を調え、三毒(貪り・瞋り・愚かさ)をコントロールできるようになりたいものです。