第54回「憍慢(きょうまん)の戒め ―自分に酔わない―」


憍慢(きょうまん)を増長するは、尚お世俗白衣(せぞくびゃくえ)(よろ)しき所に非ず。
(いか)
(いわ)んや出家入道(しゅっけにゅうどう)の人、解脱(げだつ)(ため)の故に、自ら其の身を(くだ)して而も(こつ)を行ずるをや。


奢り高ぶり、尊大な態度で周囲と接することを、お釈迦様は「憍慢」という言葉で表現なさっています。憍慢であることは世俗白衣(一般在家)においても宜しいことだとは言えませんが、まして、出家したものならば、決して、あってはならない態度であるとお釈迦様はお示しになっています。「自ら其の身を降して」とありますように、「(へりくだ)る」謙虚な姿勢が求められるというのです。これは出家者ほど求められる態度であるとも言えるでしょう。

一体、人間はどんなときに憍慢になるのでしょうか。たとえば、出世したり、何らかの役職を拝命するなど、地位を得たとき、人間は尊大になりやすいような気がします。それまで同等の立場だったのが、周囲との間に上下関係が芽生えると、人の上に立つ者は、自ら注意を怠れば、尊大な態度が言葉や行いになってにじみ出てしまうものです。だからこそ、人の上に立つ者は、この点に留意しながら、周囲と接する必要が出てくるのです。

また、「慣れ」も留意しなければならない憍慢のように思います。自分に与えられた仕事や役目について、真剣に取り組んでいくと、成熟し、成果が出てくるようになります。そうやって慣れてくると、その人の存在は重宝され、組織の中においても、重要な存在なることでしょう。しかし、「慣れ」が“狎れ”になるようではいけません。たとえ役職のない者であったとしても、人間は重宝がられていれば、いつしか礼節を欠いた態度を取るようになってしまいます。これも憍慢ということです。

地位による憍慢、慣れによる憍慢。他にも憍慢を探せば、いくらでも該当するものは出てくるでしょう。また、私たちにも思い当る節があり、反省を促されるものもあるでしょう。こうした憍慢に共通するのは、自分に酔い痴れ、周囲の存在を見下す態度です。仏教の戒律の中に「不酤酒戒(ふこしゅかい)
とあります。自分を酔わせる酒を飲んだり、他者に飲ませたり、あるいは、売買等をしないということではありますが、「不酤酒戒」が我々に説こうとしているのは、自分に酔わないということなのです。何よりも自分を酔わせ、周囲に迷惑をかけるような悪い酒は、地位を得た自分、周囲から羨望のまなざしを一手に受ける自分です。それらは自分を憍慢にさせ、自分を酔わせる可能性を秘めているのです。

そんな状況になったときこそ、自分を律し、自分に酔わないようにしていくことが大切です。それが憍慢を増長させない秘訣なのです。