第48回「曹洞宗門の坐禅 ―“無所得無所悟(むしょとくむしょご)”の坐禅―

(いわ)く、(しょう)は悟りを待つを以って(のり)と為す、是れ坐禅の心にあらず。
(ぎょう)
眞履実践(しんりじっせん)を以ってす、是れ坐禅の心にあらず、
(きょう)
断悪修善(だんあくしゅぜん)を以ってす、是れ坐禅の心にあらず。


前回より教(み教え)・行(修行)・証(悟り)について触れられています。これから、この三徳を兼ねた坐禅について、瑩山禅師様が曹洞宗門の観点からお示しになるわけですが、その触りとなる箇所が、今回の一句です。

まず、証(悟り)という側面について、瑩山禅師様は悟りを得るのを待つ坐禅は、「坐禅の心にあらず」、すなわち、「曹洞宗門の坐禅ではない」と断じていらっしゃいます。これは、悟りを得ることを目標として、日々、坐禅を行じ続けていくという立場の坐禅です。

そうなると、得た悟り(真実)に基づき、さらに行(修行)を実践・履行していく(眞履実践)というやり方は、「坐禅の心にあらず」、曹洞宗門が指し示すお釈迦様以来、祖師方が脈々と受け継いでこられた坐禅とも合致しないということになります。

また、瑩山禅師様は「断悪修善(悪を断ち、善を修する)」という、ポイントをどこか一点に絞り、坐禅修行に打ち込むようなやり方も、「坐禅の心にあらず」ともおしゃっています。

そもそも、お釈迦様から伝わる坐禅というのは、何か目的を達成するというような、自分に見返りがあるのを期待するような修行ではなかったはずです。曹洞宗の開祖・道元禅師様がお弟子様方に「無所得無所悟(むしょとくむしょご)の坐禅」ということをお示しになりましたが、元来、坐禅をしても、何も得ることもなければ、悟ることもないのです。確かに坐禅は身心を調えることによって、心の安定や落ち着きが得られるのですが、最初から自分の身心が安らかになることを目標に掲げて坐禅をしたところで、自分が思い描いた通りに目標を達成できるわけではないのです。それが「無所得無所悟の坐禅」の意味するところです。

こうした「無所得無所悟の坐禅」という点を今一度、確認させていただいた上で、次回より、曹洞宗門の坐禅について、さらに読み味わってまいりたいと思います。