第55回「
是の故に宜しく
当
憍慢に引き続き、お釈迦様がお示しになるのは「諂曲の戒め」です。「諂曲」とは、「媚びへつらうこと」です。“諂”は、“へつらう”を意味し、他者に気に入られようと、心にもないことを言うなどして、媚びを売ることを指します。そうした「諂曲」という心構え・態度が、仏の道に相反するものであるとお釈迦様はおっしゃいます。だから、心を「質直(正直)」にして、媚びへつらいといった嘘を慎むようにとお釈迦様はお示しになっているのです。
そのようにおっしゃられると、誰もが合点がいくのではないかという気がいたします。しかし、いざ、自分自身の日常を見つめなおしてみたとき、「諂曲」という態度が全くないかと言われれば、多くの人がそうではないことを認めざるを得ないのではないかという気がします。かく言う私自身もその一人です。
「諂曲」という態度で、人と関わってみると、虚しさを覚えます。相手に媚びると、最初は相手も気をよくして、会話が盛り上がるかもしれません。しかし、本心からではない嘘の会話は、たちまち言葉が出なくなり、会話の流れが止まります。そして、相手にも媚びていたが故の言葉であったことが伝わります。「欺誑を為す」とありますが、「あざむく」とか、「だます」ことを意味しています。こうした本心からではない言葉のやり取りをしているようでは、人間同士の信頼関係など築けるはずがありません。そのことを肝に銘じておくようにとお釈迦様はおっしゃっています。
場合によっては、自分が接する相手は自分よりも目上の人であったり、年長者であったりすることがありますが、相手が誰であれ、「諂曲」という、欺誑の態度で関わることを慎み、本心からの会話を心がけていきたいものです。この本心というのは、お釈迦様のお言葉をお借りするならば、「道と相違しない言葉」ということになるでしょう。それは、相手の立場に立って、相手を思いやる慈悲の言葉です。そうした言葉を発していくには、慈悲心を育てていくことが欠かせません。
お釈迦様始め道元様や瑩山様は坐禅による心の調整をお示しになっていますが、そうした調心を心がけていくことが、慈悲心を育て、諂曲の戒めへとつながっていくのです。私自身、今一度、この「諂曲」み教えを肝に銘じ、周囲の人々と道に相違しないように関わっていきたいものです。