第49回「曹洞宗門の坐禅A ―
謂
絲毫
教(教え)・行(修行)・証(悟り)の三徳について、今回は「教」に焦点を当てて、み教えが示されています。
まず、「禅中縦ひ教を立すれども」とあります。「坐禅修行にも教えが存在している」ということなのですが、その教えというのは「居常の教えに非ず」と瑩山禅師様はおっしゃっています。つまり、世間一般の教えとは形態の異なるものだというのです。
そもそも世間一般の教えとは、どんなものなのでしょうか。たとえば、学生は教師から文学や数学、化学などに関する知識を学びます。教師は教科書を使って、子どもたちを指導します。教科書には、それぞれの分野に関する教えが文字によって記されており、それを道の専門家たる教師が言葉を用いて生徒たちに教えていくのです。これが居常の教え(世間の一般的な教え・指導方法)です。
それに対して、お釈迦様から脈々と伝わる“直指単伝の道”たる坐禅は、「挙体全く説話」と瑩山禅師様がおっしゃるように、坐禅全体(挙体)が説法(説話)だというのです。すなわち、坐禅をするという教えの実践すること自体が教えだというのです。そこには教師や教科書の役目全てが含まれています。それを言い表しているのが、「語本章句没し、意尽き理窮まる」です。坐禅は言葉で事細かく説明しなくても、仏法の全てが表れており、大意も理屈も全てが説き尽くされているというのです。まさに「一言十方を尽す」なのです。
瑩山禅師様は「坐禅用心記」を、道元禅師様は「普勧坐禅儀」を、それぞれお示しになっています。坐禅を修行していく上で、そうした経典・祖録を読み味わうべきなのですが、ただ、それだけに止まり、経典を重宝がっているようでは、いつまでたっても坐禅を深く理解することはできません。やはり、坐禅を“やって、やって、やり続ける”日常あってこそであり、それを基本姿勢として、坐禅に関する教科書を読み味わうべきなのです。
そうした坐禅というのは、少しも言葉を用いることなく、仏法の全てを説き尽くしています。そうやって、人々に教えを提示しているということです。そのことを、瑩山禅師様は「絲毫も未だ挙揚せず」という言葉で言い表していらっしゃいます。そして、そうした坐禅が「仏祖眞正」の教えたる、直指単伝の坐禅なのです。