第52回「曹洞宗門の坐禅D 本有大覚(ほんぬだいがく)の証―


(あるい)は証を説くと(いえど)も、無証(むしょう)にして証す、是れ三昧王三昧(ざんまいおうざんまい)なり。
無生智発現三昧
(むしょうちほつげんざんまい)
なり、一切智発現三昧(いっさいちほつげんざんまい)なり。自然智発現三昧(じねんちほつげんざんまい)なり、如来智慧開発明門大安楽行法門(にょらいちえかいほつみょうもんだいあんらくぎょうほうもん)所発(しょほつ)なり。
聖凡
(しょうぼん)
の格式を超え、迷悟(めいご)情量(じょうりょう)()づ。
是れ()本有大覚(ほんぬだいがく)の証に(あら)ざらんや。


「教・行・証」の三徳についてのお示しも、いよいよ「証(悟り)」に関するところまでやってまいりました。まず、瑩山禅師様は「無証にして証す」とお示しになっています。坐禅を行ずることが、仏の修行そのものであり、仏の悟りを説き表しているとは言いながらも、それは「無証」であると瑩山禅師様はおっしゃいます。「無証」というのは、悟りがないということではありません。悟ったことにさえも捉われない自由な境地を意味しているのです。人間は経験を積み重ねていく中で、様々なものを体得していきますが、ともすると、そうやって自分が体得したものだけが正しいと思い込むことがあります。しかし、それはある一点に捉われることであり、結果的には、そこに立ち止まることになるのです。私たちが六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)で体得できる世界には、範囲などありません。広大無辺そのものです。そうした世界の中で、何か一点だけを正しいと捉えることは、自ら広大な世界を結論づけ、狭めた捉え方をすることになるのです。そのことに気づき、自己の見解に固執することがないように留意していきたいものです。

そうした無証なる坐禅を、瑩山禅師様は様々な言葉で表現なさっています。@「三昧王三昧」A「智生智発現三昧」B「一切智発現三昧」C「自然智発源三昧」D「如来智慧開発・大安楽行法門の所発」。これら一つ一つを詳細に説明するほど紙面に余裕はありませんが、「三昧」というのが、心を一点に専注することで、「坐禅」を意味しています。坐禅が、そうした三昧の中でも最も優れた王様の如き三昧ということから、@「三昧王三昧」であると瑩山禅師様はおっしゃっるのです。

次にA「無生智」とありますが、「無生」とは、諸行無常の体得を意味しています。この世に存在する全てのいのちは、時間という存在との関わりの中で、老いや病、そして、死という形で、変化を余儀なくされています。そうした厳然たるこの世の道理を素直に受け止めていくことができる力が「無生智」なのです。そんな「無生智」を発現(発する)三昧が坐禅だと瑩山禅師様はおっしゃっているのです。

同様にして、坐禅はB「一切智(悟りを得た仏の智慧)」を発現する三昧(坐禅)であり、C「自然智(一切の外部からの力が加わっていない本来有する智慧(仏のものの見方・考え方)」を発現ずる三昧であり、D「如来(仏)が智慧開発し、安楽の法門たるもの」であるというように、瑩山禅師様は坐禅を様々な言葉で表現なさっているのです。

そんな坐禅が聖なるものだとか、凡なることだといった、分別や比較の対象から外れた行であると共に、迷いだとか悟りといった妄想分別をも超えた、どちらか一方の価値だけを認めるような、偏った捉え方をしているようでは、中々、核心に近づけないようなものであると瑩山禅師様はおっしゃっています。実は、これこそが「本有(坐禅の本来の姿)」であるというのです。物事を自分の都合や好みだけで、その優劣を決め、どちらか一方のみを認めるような差別的な捉え方をしているようでは、坐禅の本有(お釈迦様から脈々と伝わるメッセージ)を受け取ることは不可能です。それが「本有大覚の証に不らんや」の意味するところです。「大覚」は「悟り」です。

こうした一方的な捉え方は、坐禅に限らず、どんなことにおいても、そのものが本来有している絶対の価値を認める眼を曇らせることになりかねません。何事も両面があります。良いところもあれば、悪いところもあります。きれいな部分もあれば、汚れた面もあります。そうした物事に対して、自分の価値観や好みだけで、避けたいものを避けるのではなく、万事を受け止め、両面をしっかりと捉えることを心がけながら、様々な存在と正確に関わっていきたいものです。