第58回「六根の調整 ―“欲望の(うごめ)きを真理に的中させる”べく―


少欲(しょうよく)の人は則ち諂曲(てんごく)して以て人の意を求むること無し。
亦復諸根
(またしょこん)
の為に()かれず。


少欲(自らの欲望を調整し、周囲に苦悩を与えないようにしてく)のみ教えについて、前回は故・松原泰道老師(1907−2009)の「欲望の(うごめ)き真理に的中させる」という見解を参考に味わわせていただきました。「真理に的中させる」ということは、少欲という「欲望をコントロールしながら毎日を過ごしていく生き方」そのものが、仏道修行であり、仏の生き方であると捉えることができます。ということは、日常生活における少欲行の積み重ねによって、我々は仏に近づいていけるということなのです。

そうした『欲望を真理に的中させるように調整できる者ならば、「諂曲」という態度で周囲と接することはない』と、お釈迦様はおっしゃいます。諂曲は相手に媚びへつらうことでした。すなわち、相手の地位・肩書や性別等、見た目でわかる情報に捉われ、相手との関わり方を意図的に変えることを意味しています。「諂曲」という周囲との関わり方では、相手と本音で接することなどできません。これは、結局、相手を欺いていることなのです。自分の利益を最優先して、相手に好かれようとか、相手に気に入られようといった、「人の意を求める」態度は慎み、相手が誰であれ、誠実かつ謙虚に関わっていきたいものです。

次に「諸根の為に牽かれず」とあります。「諸根」は、これまで幾度も取り上げられてきた「私たちの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」を意味しています。自分だけが救われたいと願えば、六根もそういう働き方をしてしまいます。逆に、六根自体が「真理に的中させる」ことを意識した使い方を心がけていくならば、そういう働き方をしていくのです。私たちが目指すべきは、言うまでもなく、後者の真理に的中させる六根の働かせ方です。そうすることによって、少欲の生き方が実践できるようになるのです。

そんな生き方を目指す上で、まずは、自らの六根を確認し、必要があれば、その調整から始めていきたいものです。