第54回「坐禅と戒法」


(いわ)く戒は是れ防非止悪(ぼうひしあく)、坐禅は挙体無二(こたいむに)を観ず、
万事を抛下(ほうげ)し諸縁を休息して、仏法世法管(ぶっぽうせほうかん)せず、
道情世情双
(どうじょうせじょうなら)
(ぼう)じて是非も無く、善悪も無し、
何の防止か是れ有らん、此れは是れ心地無相(しんちむそう)の戒なり。


戒というのは、「悪を断ち、善を修する」という仏教徒の生き方そのものです。瑩山禅師様は、それを「防非止悪」とおっしゃっています。

また、瑩山禅師様は「坐禅が挙体無二」であるとお示しになっています。挙体とは全体を意味しています。身体全体、物事全体、それらは善悪だとか、表裏といった、様々な相対する概念を含有しながら成り立っています。私たちの身体は腹と背(表と裏)、頭とつま先(上部と下部)といった具合に、種々の相対する要素が組み合わさって、成り立っていますいます。この世は善事も悪事もあれば、うれしいことも悲しいこともあります。そんな様々な要素を含有しながら、この人間世界が成り立っています。それらの要素は、どれを取ってみても、不要なものなどありません。それぞれが自分たちに与えられた役割を存分に発揮しながら、一体となって、私といういのちを生かし、広大無辺なる世界を作り上げているのです。それが「挙体無二」の意味するところです。

坐禅をやってみると、自分という存在を支えてくれる床や座布団、坐禅をする自分を包み込む建物の屋根や壁など、周囲の様々な存在と関わり、つながりながら、自分が存在していることに気づかされます。まさに、瑩山禅師様がおっしゃるように「坐禅は挙体無二を観ずる」行なのです。

坐禅は足を組み、手を組んで、背筋を伸ばして座ります。坐禅中は思うところがあっても、自分の勝手気ままに動き回ることは許されません。そうしたやりたいことの一切ができない状態が「万事を抛下し諸縁を休息する」ということです。こうした状態では、「仏法や世法とは何か」とか、「何が善で、何が悪か」などと頭を巡らせてみたり、言葉で論じ合ったりすることは至難の業です。なぜなら、定められた形以外の動きができないのですから。ただ、お釈迦様を見習い、お釈迦様から伝わる行を黙々とこなしていくことしかできません。だから、「挙体無二」を観じることができるのです。

こうした仏様がなさった通りに坐禅を行ずることそのものが、仏になるということなのです。言い換えれば、坐禅をすることそのものが「悪を断ち、善を修する」という、戒を行ずることでもあるのです。瑩山禅師様は「心地無相の戒」とおっしゃっています。坐禅用心記の冒頭に「坐禅は直に人をして心地を開明し、本分に安住せしむ。」とありますが、様々な存在が関わり合って、様々なものを生み出しながら、変化していく様を表したのが「心地」です。坐禅を行ずる中で、周囲の様々な存在と自分自身が混ざり合って、一体化していきます。このとき、何も悪事を働くことなどできないばかりか、善なる仏の行を行じ続けていくしかないのです。

坐禅をすることそのものが、仏になることであり、「悪事を働かず、善き行いをする」という、戒の実践に他ならないことを押さえていきたいものです。