第60回「少欲ある者は
少欲ある者は
「涅槃」に関しましては、これまで幾度も触れてきた仏教用語です。世間一般には2月15日のお釈迦様のご命日ちなみ、そのご遺徳を偲んで営まれる「涅槃会」が認知されているかと思いますが、この場合の涅槃は、「聖者・釈尊の死」を意味します。
こうした「涅槃=覚者の死・肉体の生滅」という捉え方は、お釈迦様がお亡くなりになってから百年〜二百年後、そのみ教えに対する人々の解釈の相違から、いくつもの諸派・部派に分裂していく中で生じたものです。こうした派に分かれた仏教は「部派仏教」と呼ばれますが、ここでは、覚者の死たる涅槃は「
それに対して、「
こうした部派仏教における涅槃の解釈も、時代が進み、中国や日本に仏教が伝わった西暦紀元前後の大乗仏教の時代には、さらに分化されていきます。有余依涅槃や無余依涅槃に加え、「
それらを踏まえ、今回、お釈迦様がお示しになっている涅槃を解釈していくならば、「有余依涅槃」、すなわち、「三毒煩悩を滅した状態」という立場の涅槃であると解せばよろしいかと思います。前回、「心坦然として」とございましたが、心にゆとりを持ち、三毒煩悩を調整しながら、我が身心を調えていくことを、お釈迦様は「少欲」と名づけなさったということなのです。
私自身、日常を振り返ってみますと、毎日の生活に追われ、心に余裕を持てずにいる場面が多々あることに気づかされ、反省するばかりです。心にゆとりがないことが原因となって、三毒煩悩を帯びた言葉や行いの発出につながっていることは確かです。以前、ある講演会で、「忙しいというのは、心を亡くすことだ」と教えていただいたことがあります。何かと気ぜわしい生活を送る我々は、日々の忙しさの中で、心を亡くしていないだろうか、心にゆとりを持つスペースを持てずにいるのではないか、よくよく自分自身と向き合いながら、確かめておきたいものです。そうやって、心を失うことなく、心のゆとりを意識的に作り出し、「少欲」の生き方を目指していきたいものです。