第61回「知足(ちそく)を観ずる −分別を避ける―

汝等比丘(なんだちびく)、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足(ちそく)を観ずべし。
知足の法は即ち是れ富楽安穏(ふらくあんのん)(ところ)なり。


少欲(しょうよく)(心にゆとりを持ち、自らの三毒煩悩を調整していくこと)の次に、お釈迦様がお示しになっているのが「知足(ちそく)」です。これは世間一般でも、“足るを知る”とあるように、何事に対しても“満足できること”とか、“感謝できること”という意味で使われています。

そんな「知足」について、お釈迦様は最期を迎える瞬間、お弟子様に何を語られたのでしょうか。それを「仏遺教経」のみ教えを手がかりに、仏教の観点から味わっていきたいと思います。

本文を見てみますと、お釈迦様は「人生のあらゆる苦悩から救われたいと願うならば、知足を観じなさい」とお示しになっています。「諸行無常(しょぎょうむじょう)(万事が時間と関わるがゆえに、生老病死等の変化を受け入れていかねばならないこと)」や「諸法無我(しょほうむが)(様々な存在との関わりの中で、思い通りにならない現実を受け止めていかなくてはならないこと)
」とあるように、私たちが生きる人間世界には様々な苦悩が満ちています。そんな世界の中で生きていくには、出来得るだけ、我が身を苦悩から遠ざけておかなければ、生きること自体が辛くて困難なだけのものになってしまうことでしょう。そうなってしまうと、生きる気力が芽生えてこなくなるのです。

そこで、お釈迦様は「知足を観ずること」が欠かせないとおっしゃるのですが、この「知足を観ず」とは、どういうことなのでしょうか。そもそも「観」は、「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)様(観音様(かんのんさま))」の「観」であり、訓読みすれば、「()る」となります。私たちは、自分の目で周囲の様々な存在や情報を見るときに、自分の好みや価値観に捉われ、“好き・嫌い”等の分別を生じさせ、どちらか一方だけの価値を認めるような、偏ったものの見方をしてしまいがちです。しかし、それは凡夫のものの見方であり、悟りを得た仏様のものの見方はは、そうではありません。万事の価値を認めるような見方・関わり方をしていきます。それが「観る」ということなのです。そして、そうしたものも見方が「仏眼(ぶつがん)」だとか、「智慧(ちえ)」であり、そうした見方を以って知足を捉え、日々の生活の中で実践していくことが、「知足を観ず」ということなのです。

「知足を観ずる」ことができるようになると、たとえ、どんなに辛くて苦しいことがあっても、そこから逃げず、事実として受け止めることができるようになるはずです。また、自他を比較して、他者を羨望のまなざしで見ることがなくなり、自分は自分でいいと自己に満足できるようにもなるはずです。こうした捉え方は、自己の中に生じた貪りの心が調整され、心が満たされた状態です。それから、今まではマイナスと思っていたご縁(苦手な人との関わりや嫌な仕事を行うことなど)にプラスものを見出すことができるようにもなります。そうやって、あらゆるご縁に感謝できるようにもなるのです。

心が満たされ、何事にも感謝することができれば、「富楽安穏」の境地が訪れるのは言うまでもありません。これは自分の身心が安らかで穏やかな状態になることを意味しています。私たちは心にゆとりをもつことで、欲望が調整されていきます。また、私たちは心が満たされていくことで、足ることを知ります。そうやって心を調整しながら毎日を過ごしていくことによって、私たちは仏に近づき、日常生活の苦悩が安楽へと変化していくのです。

そうした日常生活が訪れることを願うとき、自分の好みで、周囲を分別するのをやめ、万事に価値を認め、大切にしていける視点を養うことが求められることを、今回は押さえておきたいところです。