第62回「不知足の戒め」
不知足の者は、天堂に
大本山永平寺様や大本山總持寺様のような修行僧が大勢いる禅寺では、それぞれが担当すべき役割が割り当てられ、お寺が運営されています。A僧侶はお寺の檀信徒接待係、B僧侶は修行僧の食事作り担当、C僧侶はお寺の伽藍修繕係といった具合に役が配られることから、これを「配役」と申します。あたかも映画やテレビドラマのキャストのごときものです。
時折、芸能人がオファーのあった役が自分に合わない等の理由で断ったという話を聞くことがありますが、禅寺においては、依頼された配役を自分の都合で断ることは、基本的に許されません。それは、たとえ、どんなに不本意な配役であったとしても、嫌な顔せずに受け入れ、黙々と務めさせていただくことが禅僧には求められるということです。
仮に不本意な配役であったとしても、それを演じ切るためには、自分の心を調え、楽しく、気持ちよく務められるようにしておく必要性が出てきます。それに対する解答の一つを、お釈迦様がお示しになっている「知足」が指し示していることに注目すべきです。
「知足の人は地上に臥すと雖も、猶お安楽なりとす」とお釈迦様はおっしゃいます。地上とは冷たくて固い地面の上です。そんな場所で休息を取るように勧められても、身体が休まらないと思って、拒否する人も出てくるでしょう。
しかし、それが「不知足の者」だと、お釈迦様は戒めなさるのです。足るを知り、何事にも感謝の意を忘れずに過ごせる「知足の人」ならば、たとえ冷たくて固い地面の上であっても、自分なりに何か安眠できる方法を考え、実践してしまうのです。知足の者は自分が思う条件と合わないからといって、拒んだり、文句を言ったりするようなことはしないのです。
それに対して、「不知足の者」は、「天堂に処すと雖も亦た意に称わず」とあるように、安楽この上ない天堂(天上界)にいても、何らかの不平不満を言葉や態度に示すものだとお釈迦様はおっしゃるのです。
こうした「不知足の者」は私たちの周りにも該当者がいるような気がしますが、まずは、自分自身が「不知足の者」と言われんばかりに、何に対しても、感謝することができず、不平不満を言葉や態度に表していないだろうかを、よくよく考えておきたいところです。試しに自分の日常を振り返ってみると、知らず知らずのうちに、不知足この上ない言葉や態度が出ていることに気づかされ、ハッと反省させられることがあります。禅僧が不平不満を表すことなく、自分の配役を務めるように、私たちも人からの依頼であったり、自分がこなすべき仕事や役目に対して、快くお引き受けし、気持ちよくつとめさせていただくことが大切です。「知足」のみ教えを通じて、そうした心構えを学び、日常生活の中で留意して過ごしていきたいものです。