第56回「() ―仏性を認める―


()は是れ簡擇覚了(けんちゃくかくりょう)なり。
坐禅は所知自(しょちおのずか)ら滅し、心識永(しんしきなが)く忘ず、通身慧眼(つうしんえげん)簡覚有(けんかくあ)ること無し。
明かに仏性を見る、()と迷惑せず、意根(いこん)を坐断し、廓然(かくねん)として瑩徹(けいてつ)す、
是れ慧にして慧相無(えそうな)し。故に大慧(だいえ)(なづ)くるなり。


今回は「慧」の観点から坐禅が説き示されていきます。「慧」は三毒煩悩を断ち、真理を体得することで、物事の道理を見極め、自分の心の中に納めることです。

真理や道理というのは、真実や物事の本当の姿を指すわけですが、それらを的確に体得していくためには、自分勝手なものの見方で、選ぶものと選ばれないものが生じるようでは、真実の体得などできません。そうしたものの捉え方によって、真実を見逃すようなことを意味しているのが「簡擇」です。「簡」は「選ぶ」ということを意味しています。そして、「覚了」は、覚知です。すなわち、自己都合による分別・選別が真実に対する目をくらませることに注意喚起を与え、良し悪し含めた全体を捉えてていくことが、「慧」を体得してい上で必要だというのです。

そうした「慧」の観点で以て、坐禅を捉えていくとどうなるのでしょうか。瑩山禅師様はまず、「所知自ずから滅し、心識永く忘ず」とお示しになっています。あれこれ細かいことまで思考を巡らせていた頭や心の働きがなくなっていくというのです。これは思考が完全に停止したということではありません。自分を苦しめ、惑わせていた三毒煩悩を言葉や行いで発することなく、自分の中で調整できるようになったということです。そして、通身(全身)が慧眼(物事の道理を見極める智慧の眼)となり、簡(選ぶ)という感覚なくなっていくというのです。

そうした感覚によって、見えてくるのが仏性です。どんないのちも必ず有している仏の性質が「仏性」なのですが、自分の中に眠る仏性と、相手が必ず持っている仏性と、その両方に気づくことが「慧」の目標なのです。そして、そうした「慧」によって、あらゆる存在にいのちを認め、大切に関わっていけるようになるのです。「廓然」や「瑩徹」というのは、あたかも晴れ渡った青空ように明るく、透き通った様を言い表しています。それはまさに、何事にも捉われない心の様を表しています。そんな心の状態が坐禅によって形成されると共に、そうなって自他の仏性という尊い存在が見えてくるようになるのです。

そして、「慧にして慧相無し。故に大慧と名くるなり」とあります。これは、前回の「定」の最後の一句の中で、「定にして定相無し、定相無きが故に大定と名くるなり」とありますが、この箇所と対をなしています。「定」が「動静双方を兼ねたもの」であるのに対して、「慧」は、「分別を経て、物事の真実や価値に気づくもの」であることを意味しています。それが「大慧」の意味するところです。

誰しも最初から真理を見抜くことは難しいです。なぜなら、元来、人間は自分の好みで好悪を分別する習性を有するからです。では、与えられた習性のまま、自分の好きなことだけを行い、自分に好都合なものだけを選び取ればいいのかと言えば、それでは、普段の生活の面でも困り事が生ずるでしょうし、いつまでも真理を体得することができません。最初は分別の眼を持っていたとしても、どこかのタイミングで視点を変更し、万事の仏性を認め、お互いを敬い合えるようになりたいものです。