第7回「一体三宝 -唯一無二なる絶対の宝-


阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)仏宝(ぶっぽう)称為()い、清浄(しょうじょう)にして(ちり)()くするは乃ち法宝(ほうぼう)、和合の功徳は是れ僧宝(そうぼう)なり。これを一体三宝と名づく。


「三宝に三種の功徳あり」という道元禅師様のお示しについて、①一体三宝②現前三宝③住持三宝という三種を一覧表を用いながら簡単に触れさせていただきました。その中の「①一体三宝」について、詳しく示されているのが今回の一句です。

そもそも「一体三宝」とは、真理を仏・法・僧の3つの側面から見た場合の捉え方で、三者は別個でありながら、相互に関連し合い、一体になっているという点がポイントです。これは「六波羅蜜(ろっぱらみつ)」や「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」などの仏教思想においても採用されている考え方で、仏教の世界では、分別という捉え方をするのではなく、一体のものとして捉え、それを構成している6つないしは4つの存在があるという捉え方をすればよろしいかと思います。

そんな一体三宝を形成する仏宝について、それが「阿
耨多羅三藐三菩提」であると道元禅師様はおっしゃっています。「阿耨多羅三藐三菩提」は仏が三毒煩悩を断ち、悟りを得た無上の存在であるということを意味しています。そんな仏だからこそ、宝の如く敬い、帰依していくというのです。

次に、道元禅師様は「法宝」について触れていらっしゃいます。仏のみ教えたる法が「清浄にして塵を離くする」というのですが、法は三毒煩悩の汚れなき清浄なるお釈迦様のみ教えであり、お悟りであるが故に、それに帰依し、従っていくならば、私たちの中に存在していた三毒煩悩も調整され、表出することがなくなっていくというのです。法への帰依は仏への帰依に直結します。仏に帰依するとき、自分が発する言葉、提示する言動が仏のみ教えを帯びて、調えられていくのです。すなわち、一挙手一投足、一語一語に仏の魂が込められていくのです。これが「塵を離くする」ということなのです。

そして、道元禅師様は仏の慧命(えみょう)嗣続(しぞく)する(お釈迦様のみ教えを実践する)僧宝は「和合の功徳」であるとおっしゃいます。「和合」というのは、「仲良くすること」という意味で使われますが、これは仏や法に和して打ち解けながら、我が標準を合わせていくことを意味しています。人と人が仲良く和することは、お互いに気持ちよく過せるばかりか、周囲にも安心感を与えていきます。人間同士が仲良くできるのは、相手に和し、相手にと打ち解けて、一体になろとするからに他なりません。そこでは、相手の身になった言葉や行動の発出があります。

そうした和合をできるだけ多くの人々と実現できることを目指していきたいものですが、注意しておきたいのは、和合でないものを和合と思い込むようなことがないようにしたいということです。相手に対して、言いたいことも言えずに、相手に媚びるなどして、言いなりになっているような人間関係を目にすることがありますが、これは和合とは言えません。お釈迦様のお言葉をお借りするならば、「諂曲(てんごく)」という媚びへつらいです。自分と相手との関係性を振り返ってみたときに、その関係性が和合なのか、諂曲になっていないか、よくよく考えてから相手と関わっていきたいものです。

仏法僧の三宝は一体のものであり、そのいずれかに帰依すれば、他の二者に帰依したことになるわけですが、三宝各々に「宝」という文字が付されていることについて、大本山永平寺の西堂(せいどう)職をお勤めになった橋本恵光(はしもとえこう)老師(1890-1965)は、『自分も恵まれ、ついでに他も恵まれてゆく宝が「仏法僧」である。これ以外にもう宝は無い。』(教授戒文提唱 国書刊行会)とお示しになっています。自他共に恵まれるものが、本当の宝であり、仏法僧はそういった存在でもあるということを心に留めて、帰依の念を新たにしていきたいものです。