第57回「三学を収めた坐禅 ―“無所得無所悟”なる
諸佛の
今の坐禅は戒として持せずといふこと無く、
定として修せずといふこと無く、
慧として通ぜずといふこと無し。
降魔
神通妙用
三学(戒・定・慧)は「干かるに非らず」とあるように、三者が別個に存在するのではなく、お互いに関連し合いながら三学というみ教えを形成しているのでした。
そうした三学の全てを含むのが坐禅であると瑩山禅師様はおっしゃっています。それが「戒定慧の中に總べて収めずといふこと無し」の意味するところです。坐禅は戒(悪を断ち、善を修する)の実践であり、定(身心の安定・調整)であり、慧(この世の真理への気づき)の行そのものなのです。そして、「諸仏の教門、一代の所説」とあるように、お釈迦様が悟りを得た坐禅こそが、三学を總べて収めた坐禅であり、そんな坐禅が今日まで
『「降魔」、「成道」、「転輪」、「涅槃」もまた、同じである』と瑩山禅師様はお示しになっています。この4つは「
お釈迦様がお生まれになる前にいらっしゃったとされる世界 | |
託胎 | 母胎に宿り、生を受けること |
出生 | 誕生 |
出家 | 俗家を出て、仏門に入ること |
降魔 | 仏道修行の妨げとなる三毒煩悩等を発生させないよう、断ずること |
成道 | 悟りを得ること |
転法輪 | 説法を行うこと |
入涅槃 | 煩悩を断じること、死 |
こうした八相にも坐禅のみ教えが収まっているということは、各々の瞬間において、その人間が発する言葉も行動も、坐禅を基本とした調えられたものであり、冷静かつ穏やかなものなのであるということです。これは、その人間の生き様が坐禅を根底としたものであることを意味しています。「神通妙用」とあるのは、坐禅のみ教えを根本に置いた行動で、悟りの境地に至った者の他者に捉われない自由な動きを意味しています。そして、言葉における「神通妙用」の境地が「放光説法」です。仏様の如く穏やかで温かい光を放つ説法、言葉の発出です。
道元禅師様は「
そんな坐禅を一日の中で、せめて10分程度の短時間でもいいから継続し、身心を調える習慣をつけていきたいものです。