第68回「精進 ―少水の常に流れて、則ち能く石を穿(うが)つが如し―


汝等比丘(なんだちびく)、若し勤めて精進すれば、則ち事として難き者なし。
是の故に汝等(まさ)に勤めて精進すべし。
(たと)えば少水の常に流れて、則ち能く石を穿つが如し。


「八大人覚」の四点目としてお釈迦様が提示なさっているのが「精進」です。これについても、これまでと同様に明快な譬えを用いながら、説き示されています。

そもそも「精進」は「お釈迦様のお悟りに向かって、ひたすら仏道修行に励むこと」を説いたみ教えです。『どんなに困難と思われるような一大事であろうとも、掲げた目標の達成だけを思って、毎日を過ごしてほしい。そうすれば、「事として難き者なし」、どんなことでも達成できる。』とお釈迦様はおっしゃいます。だから、『「当に勤めて精進すべし」と、「精進」をしっかりと念頭に置いて、毎日を過ごしていただきたい。』とお釈迦様は我々に願われるのです。そして、そうした生き方が「勤心に善法を修す」ということにもつながっていくのです。

しかしながら、我々人間は、何か目標を掲げ、その達成に向けて日々取り組んでいく中で、上手くいかない場面に出くわせば、「自分には無理なのか」などと思い込んで、諦めたり、別の道を目指そうとしてみたり、怠けて時間を無駄に費やしてしまうことがあります。確かに、道を究めること自体が困難を伴うものです。しかし、だからと言って、「自分には無理だ」と思うのも、決めつけであり、思い込みであり、そうした考え方が道を究める上での障害になるのも確かです。大切なことは「できないと思い込まない、決めつけない」ということなのです。

また、精進していこうという気持ちはあるのに、周囲の環境が調わず、自分の思うように事が進められないこともあります。令和2年が間もなく終わろうとしていますが、新型コロナウイルスに翻弄された一年だったように思います。このために、これまで普通に行われていた法要や法話が中止を余儀なくされ、令和2年における私がご依頼をいただき、実現できた法話の場は3回という、16年前の駆け出し時代よりも少ないという結果になりました。今年は年頭に布教のテーマを掲げ、計画書も作るなど、強い意気込みを持って、布教教化に臨みましたが、“コロナ”という外部の要因によって、事として進めることができませんでした。

こういう事態に陥ったとき、私は「風車、風の吹くまで昼寝かな」という広田弘毅・第32代内閣総理大臣(1878−1948)の一句を思い起こすようにしています。そうやって過ごしてみるとどうでしょう。布教に関連するネタ探しなど、実はやるべきことがたくさんあることに気づかされ、そうした布教の準備に今まで以上に時間をかけることができた一年となりました。そして、そのことに対して、随分と達成感を覚えたものです。こうしたことは、いざ追い風が吹いてきたときに、ゆっくり時間を取ってやろうとしても難しいことばかりです。むしろ、今のような向かい風が吹いているときにこそ、準備に時間をかけて、いざというときににスムーズに動き出せるようにしたいものです。そうやって、少し視点を変えれば、様々なものが見えてくることを再確認させていただきました。

だから、どんな状況になっても、諦めてはならないのです。怠けて時間を無駄に浪費するようなことがあってもいけません。少しでもいいから、諦めずにやり続けていくことによって、必ずや、一大事たる目標が達成できるのです。お釈迦様がおっしゃる「少水の常に流れて、則ち能く石を穿つが如し。」というたとえこそ、是非、肝に銘じておきたいものです。ほんのわずかな量の水でも、流し続けていれば、硬い石が割れるときがやって来るのです。

新型コロナウイルスもイギリスやアメリカでワクチンが開発されるなど、コロナの感染防止対策は日々、着実に進んでいるのを感じます。これも「精進」のなせる業です。こうした仏道の世界で示されている「精進」を、普段の仕事など、日常生活にも生かしていくことを願うばかりです。