第69回「“全集中”で進む」


若し行者(ぎょうじゃ)心数々懈廃(こころしばしばげはい)すれば、
譬えば火を()るに未だ熱からずして(しか)()めば、火を得んと欲すと(いえど)も、
火を()べきこと(かた)きが如し。是れを精進と名づく。


令和2年の流行語大賞トップ10にも選ばれ、社会現象ともなっている大ヒットアニメ「鬼滅の刃」。その中で使われている代表的な言葉に、“全集中の呼吸”というのがあります。これは、人食い鬼を狩る力を持った剣士の集団である“鬼殺隊”が身につけておくべき特殊な呼吸法です。著しく強化された心肺によって、一度に大量の酸素を血中に送り込み、筋肉を強化させて瞬間的に身体能力をアップさせる特殊技能で、そこから様々な剣術も生み出されていくようです。

こうした技術を習得していく方法は修練以外になく、才能は無関係だそうです。これぞ、まさにお釈迦様がお示しになっている「精進」そのものであり、前回の「少水の常に流れて、則ち能く石を穿(うが)つが如き」という喩えともピッタリと符合することに気づかされます。

そんな「精進」について、今回、お釈迦様は二つ目の喩えを提示して、お示しになっています。それが「火を鑚るに未だ熱からずして而も息めば、火を得んと欲すと雖も、火を得べきこと難きが如し」です。“鑚”には、“キリ(穴をあける道具)”だとか、“火を得る”という意味があります。原始時代の人々が木と木を擦り合わせて、火を起こしていましたが、これが“鑚”です。現代はマッチやライター等を使って簡単に火を起こすことができます。しかし、原始時代の火起こしは、方法が限定されている上に、その方法自体が、少しでも手を緩めれば、結果を得られないものでもあります。たとえどんなに手が疲れようが、「火を起こすという目標が達成できるまで」は、木と木を擦り合わせ続けなくてはならないのです。「精進」というのは、そういうものであるとお釈迦様はおっしゃるのです。

「行者の心数々懈廃すれば」とあるのは、仏道修行者が自らの仏道修行が限界に達したと思い込んで、道を歩むのを諦めることです。そうやって進むのを止めれば、後退し、目標の達成が困難であることは言うまでもありません。自分が掲げた目標を達成させたいと願うのならば、火が起こるまで木を擦るがごとく道を歩むしか方法はないのです。

ちなみに、“鑚”を用いた熟語に“研鑽”という言葉があります。どんなことがあっても諦めずに学び続けることです。これも「精進」に他なりません。それぞれに歩んでいる道は違いますが、「全集中の呼吸」を習得するが如く歩んで、目標を達成していきたいものです。一度に進むことはありません。ゆっくりと、一歩一歩でいいのです。ただし、着実に進んでいけるようにしたいものです。