第14回「瑕疵(けし)と向き合う」


瑕疵(けし)包蔵(ほうぞう)し異を(あらわ)し、衆を惑わすことを得ざれ


たとえば、自分の周囲にいる人で、明らかに道から外れた言動を取る人がいたとします。できれば、本人にそれを指摘し、改善を願いたいのですが、相手が先輩であったり、自分よりも有能だと感じる人だったりすると、簡単には言い出せないものではないかと思います。こうした経験は誰しも身に覚えのあるもので、相手の立場なり、相手の反応などを考えると、中々、瑕疵(けし)(人の短所や欠点)を指摘するのは容易なことではありません。

そうした道から外れた人間の言動に対して、お釈迦様は「異を顕し、衆を惑わすことを得ざれ」とおっしゃいます。むやみやたらと感情的になって相手の言動を批判して、みんなを惑わすようなことをするのではなく、相手の状況や心情を察しながら、その言葉で相手がハッと自分の瑕疵(けし)に向き合い、道を正すことにつながるようなものを選びながら、相手と関わっていくことが欠点を指摘する上で大切だとおっしゃるのです。

また、逆に自分が周囲から瑕疵(けし)を指摘されることもあります。そんなときも、感情的になって相手の言葉に反論して、周囲に不快な空気を漂わせるのではなく、まずは、素直になって、相手の言葉に耳を傾けながら、本当にそうなのかどうかをよくよく考えてみることが大切です。それもまさに、前回登場した自分の心を調える「調心」なのです。

私たちは誰しも自分がかわいいです。自分を大切にするあまり、自分に対する批判や攻撃を受けたときには我が身を護ろうとします。それが人間の本質なのでしょう。

そんな性質を有した人間に対して、道元禅師様は「吾我(ごが)を離るるべし」とおっしゃいます。自分をかわいがり、自分に執着することは、迷いを生み出し、決して、悟りにはつながらないというのです。

中には、一生懸命勉強して有名になろうとか、いいことをして人に誉められようなどと、自分かわいさ故に自分にとってよき見返りを求めるようなことをする人がいます。一生懸命がんばっているので、それを精進と捉えれば、そうなのかもしれません。しかし、精進の先にあるものが自分かわいさゆえのエゴならば、それはお釈迦様がお示しになられた精進とは言えません。たとえ一時的には道を得ることができても、最終的にはお釈迦様がお悟りを得られたように、その道の大切なものなり、本質に到達することはできないでしょう。

「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法(ばんぽう)に証せらるるなり。」―これは道元禅師様が「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)現成公案(げんじょうこうあん)」の中でお示しになられた有名な一句です。「仏道修行にとって、自分自身を明確に知ることが大切である。自分自身を明確に知るためには、自分に執着し、自分をかわいがるのをやめる必要が出てくる。そうしなければ、悟りには近づけないだろう。」と道元禅師様はおっしゃいます。たとえ自分にとって厳しいと感じることであっても、それを自分にとって必要なご縁と認め、自らが歩んでいる道のために我が身を使わせていただく―そうすることで自ずと悟りがやってくるのです。

こうした自他の欠点に対する向き合い方を通じて、日常の人との関わりの中にも仏法があり、み教えに従って、仏に我が身を委ねれば、必ずや道が開けていくことをしっかりと肝に銘じておきたいものです。