第13回「摂衆生戒(しょうしゅじょうかい) 一切衆生が救われる道


摂衆生戒。凡を超え、(しょう)を越えて、自を度し、他を度すなり。是れを三摂浄戒(さんじゅじょうかい)と名づく。


令和3年1月3日の午後でした。毎年、この日は金沢市内近郊の檀信徒のお宅に祈祷札を持って、新年のご挨拶にお伺いします。今年も例年通り、年始のご挨拶に出向いておりましたところ、住職の携帯にお寺から連絡が入りました。遠方のお檀家さんがお亡くなりになったというのです。昨年末に交通事故に遭われ、意識不明のまま、新年3日に静かに旅立たれたとのことです。このお檀家さんのことを思い返してみますと、平成30年4月、私が現住職地であります松山寺(しょうざんじ)において晋山結制(しんさんけっせい)の儀をつとめさせていただいた折、ご遠方から駆けつけ、ご参詣くださったと共に、式典後、「すばらしかった」と歓喜のお言葉を賜ったことが思い出されます。そのことが、どれだけ若輩住職の精神面を支えてくださったことか。そのご恩は一生、忘れることはありません。

あれから3年が経過した今、このお檀家さんの死によって、私の41年の人生の中で、全身全霊で取り組んだ晋山結成の記憶が蘇ってきました。“次世代を担う人々と仏様とのご縁を育む”というテーマを掲げ、新住職がお寺に入るのを彩る「稚児行列」に力を入れ、60名近くのお子様・親御様がご協力してくださいました。また、市内のみならず遠方からも多くの檀信徒の皆様が駆け付けてくださいました。そのときの私は、そうした方々にご無礼のないように、また、何かしらの思い出ができるようにと神経を注ぎ、かつてないほどに熱くなっていました。それゆえか、熱くなりすぎて、式典の前日に行われた法要の馴()らし(リハーサル)では、連携不足でミスが多いと感じた法要担当の部署に檄を飛ばしてしまうくらいでした。今思えば、相手の身になって、もう少し冷静になれなかったものかと、思い出す度に赤面し、反省を促されるくらいです。

これは悪く言えば、熱くなり過ぎであり、良く言えば、一生懸命だったんだと自己解釈していますが、自分の発する言動一つ一つに十分に心を込めて、あたかも仏様の如く、丁寧に執り行うことが、冒頭にある「凡を超え、聖を越えて」の意味するところです。これは、凡夫や聖人といった境界を作ることなく、対立状態を超えた、純一かつ無雑な状態を意味します。

そういう状態で周囲のいのちと関わってくことが「摂衆生戒」です。私たちのまわりには、人がいて、動物がいます。それらは空気を吸って、水を飲み、食べ物をいただいて生かされています。そうした存在に対して、私たちはいのちあるものと捉えます。それに対して、私たちは、道具や道端に転がる石ころのような存在は無生物であり、いのちの存在は認めません。しかし、仏教では人であれ、モノであれ、石ころであれ、生物も無生物も関係なく、万事が仏性(ぶっしょう)(仏のいのち)の宿った存在であるという観点から、いのちある存在と捉えます。そうした仏性を有した存在を「一切衆生」というのです。

そうした一切衆生が、その存在を認められ、差別されることなく、皆、大切にされることが「自を度し、他を度す」ということであり、それが「摂衆生戒」の目指すところです。そして、これが、一つには“悪を断つ”という「摂律儀戒(しょうりつぎかい)」の側面であり、もう一つには“善を修する”という「摂善法戒(しょうぜんぼうかい)」の側面でもあるのです。つまり、「自を度し、他を度す」という「摂衆生戒」を意識しながら、言動を発していくことが、「悪いことをしない、良いことをする」という「戒」という生き方なのであり、3つの側面を持った「三聚浄戒」ということなのです。こうした生き方を目指していく大前提となるのは、仏法僧の三宝への帰依です。今一度、自身の三宝帰依を確認しておきたいものです。

年頭に一人のお檀家さんとの別離を通じて、思い出された晋山結制の記憶。多くのお檀家さんやお稚児さんから喜びのお言葉を賜り、住職が掲げたテーマは達成できたように見える半面で、少なくとも、私は晋山式に携わってくださった全ての方(一切衆生)に心を配ることができなかったことは大いに反省しなくてはなりません。新型コロナウイルスの感染が再拡大の兆候を見せながら迎えた令和3年の念頭に際し、住職は「調」という目標を掲げました。この一年は、“ココロ・カラダ・コキュウ”を調えて、穏やかな言動を発しながら、一切衆生と関わっていくことを習慣づけていきたいと思っています。今年も一年、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。  合掌