第74回「定を()る者 −“智慧(ちえ)の水”を(たも)って−

()(じょう)()る者は心則ち散ぜず。
(たと)
えば水を惜しめる家の、善く堤塘(ていとう)を治するが如し。行者(ぎょうじゃ)も亦た(しか)なり、
智慧
(ちえ)
の水の為の故に、善く禅定(ぜんじょう)を修して漏失(ろうしつ)せざらしむ。
是れを名づけて定と為す。

「定を得る者は心則ち散ぜず」とお釈迦様はお示しになっています。これは、「定を修習(しゅじゅう)(体得)し、日常生活の中で実践できる者は、どんなことがあっても心が動ずることなく、冷静でいられる」ということです。

こうした「定を得る者」というのは、譬えてみるならば、「水を惜しめる家の、善く堤塘を治するが如し」であるとお釈迦様はおっしゃいます。これも実に明快な喩えではないかと思います。水は生物が生かされていく上でも、産業活動を継続していく上でも、不可欠な存在であることは誰もが周知のことです。ところが、特に今の日本に目を向けてみたとき、ダムや水道が十二分に整備され、現代に生きる私たちは水に事欠いたという経験もほとんどありません。そんな中で、ともすれば、水の存在を意識せずに日々を過ごしているのではないでしょうか。大雪や極寒の中で水道管が破裂し、水道が使えなくなるといった自然災害による断水を目の当たりにしたとき、水の存在や、その大切さに気づかされ、ハッとさせられた経験がある方も多いのではないかという気がします。

そんな水ですが、ダムや水道が存在しなかった時代、人々は水不足に苦しんだとき、その改善方法を模索するなどしながら、水と共に生きてきました。また、世界に目を向ければ、水道のない国では、遠く離れた水源までバケツ持って水汲みに通うこともあるそうです。水に恵まれた我々現代人にとって、「水を惜しめる家の堤塘を治する」という、「大切な水を貯めて、外に漏らさないようにする」という苦労や労力というのは、想像するのは難しいかもしれませんが、そうした水道のない地域に生きる人々が水汲みのために、毎日、自宅と水源を往復することを我が身に置き換えて考えてみれば、少しは、お釈迦様がおっしゃる喩えの意味が見えてくるのではないかという気がします。「どんなことがあっても動じることなく、冷静に心を(たも)つ」という、「定」の生き方を、大切な水を漏らさぬが如く、意識して護り続けていきたいものです。それが「行者」たる「仏道修行者」の在り方なのです。

そうした行者が日々の仏道修行によって、外に漏らすことなく、大切に護り続けるものを、お釈迦様は「智慧の水」とおっしゃっています。「智慧」は「八大人覚」の一つで、次回からお釈迦様より具に遺誡されていきます。「仏の悟りを得たもののモノの見方・考え方」を意味する「智慧」。「何事にも動じず、冷静な心で過ごすことを心がける」のが、「智慧の水」を漏失させないであり、それが「定」という生き方なのです。