第16回「不偸盗戒(ふちゅうとうかい) −“心境如如(しんきょうにょにょ)”なる生き方を目指して―


第二不偸盗(だいにふちゅうとう)心境如如(しんきょうにょにょ)なれば、(すなわ)解脱門開(げだつもんひら)く。

あらゆる存在に対して、いのち(仏性)があることを認めた上で、どんないのちに対しても、自分の好悪の感覚に捉われ、接し方を変えるような差別的な関わりをすることなく、その存在を敬い、生かすこと。そして、そうしたお釈迦様のみ教えと共に生きることを通じて、仏法を護持し、絶やすことなく次世代へとつないでいくこと。それが第一「不殺生」が指し示すことでした。

この「不殺生」のみ教えは奥深く、重要な観点が多々、内包されていますが、その中でも、自分の感覚だけで物事の是非等を判断し、好悪を分別する捉え方を慎むという点に着目していくと、「第二不偸盗」というみ教えが自ずと生じてくるように思います。“盗”という文字から多くの人は“盗みを戒めるみ教えである”ことが推察できるでしょう。お察しの通りで、“偸”もまた、「盗む」という意味があります。

毎朝、新聞に目を通しておりますと、大抵、どこかで窃盗事件が発生していることが報道されています。食料品や化粧品などの日用品の盗難から、果ては、振り込め詐欺等に見られるような多額の金品の盗難等、私たちの日常生活における「盗み」というのは、「殺生」と同等、もしくはそれ以上に発生している悪事の一つではないかという気がします。

そもそも、なぜ、「盗み」という悪事が発生するのでしょうか。それは、自分のモノと他者のモノという分別が生じたとき、そこに好悪の感覚が発生して、他者のモノを羨んでみたり、欲しくなってみたりするからに他なりません。そして、この感情を自分の中で調整することなく、(ほしいまま)にしていると、三毒煩悩となり、貪りの言動となって表出していくのです。これが「盗み」が発生する原理です。

こうした原理は人間ならば誰しも発生させる可能性を持っていますす。そのことを踏まえた上で、貪りの心が生じないように我が身心を調えていくのが「不偸盗」における大切な第一の視点です。

第二の重要なポイントとなるのが「心境如如なれば、而ち解脱門開く」です。「心境」というのは、「主観と客観」のことで、「自と他」のことを意味しています。「如如」というのは、「本来のあるがままの姿」のことで、それが区別のない一体の姿であるということです。すなわち、どんな存在であれ、いのち(仏性)を有したものであり、仏法僧の三宝に帰依するものであるならば、全てを仏様のごとくに捉え、敬っていく姿勢が求められていくのです。そういう“仏性を有した存在である”という意味での一体であり、「如如」ということなのです。

そうした「如如」なることを認めることができたとき、「解脱門が開く」のです。「解脱」は「三毒煩悩の束縛から離れた悟りの境地」です。『「盗まない」という「不偸盗」を通じて、万事が仏性を有した仏の如き大切な存在であることに気づけば、私たちは仏に近づける』というのが、「不偸盗」における道元禅師様のお示しなのです。すなわち、「不偸盗」は窃盗を戒めるのは勿論のこと、人でもモノでも万事を大切に扱うことを説いたみ教えであるということを、是非、押さえておきたいものです。

この点について、最後に、住職の若かりし頃の失態を通じて得た「不偸盗」を最後にご紹介させていただきます。大本山總持寺(横浜市鶴見区)で修行させていただいていた頃、行鉢(ぎょうはつ)(僧堂内での修行僧が作法に則って食事をいただく修行)中に、事もあろうに、誤って自分の応量器(おうりょうき)(食器)を床に落としてしまったのです。兼ねてより先輩の修行僧から、「応量器は仏様を敬うかのように大切に扱いなさい」と教わっていたのですが、今思えば、当時の私は反骨精神旺盛で我が強かったのか、そうした先輩からの教えに聞く耳を持っていなかったのでしょう。だから、自分の空腹を早く満たせればよいという、食を貪る心が勝り、食をいただくために必要となる応量器に思いを巡らせ、大切にしようとする気持ちが欠けていたように思います。まさに「心境如如」などという、応量器に仏性の存在を認めたり、万事を仏の如く敬ったりする姿勢など、微塵にもなかったのです。だから、作法に準じた応量器の使い方をせず、床に落とすという不始末につながっていったと、今更ながらに、当時の自分を反省させていただくのです。

こうした「心境如如」のみ教えを意識していけるかどうかによって、私たちが発する言葉や態度にも大きな影響が出てくることは言うまでもありません。こうしたみ教えを大切にしながら、万事の仏性を認め、敬いながら関わっていきたいものです。