第68回「経行(きんひん)の法 その2 −“方便”の奥底には−

(しか)して経行(きんひん)の方は、一息恒(いっそくつね)半歩(はんぽ)なり、行くも()た行かざるが如く、
寂静にして動ぜす。是の如く経行するも、()(いま)だ醒めざる時は、
或は目を(あら)(いただき)(ひや)し、(あるい)菩薩戒(ぼさつかい)の序を(じゅ)し、種々(しゅじゅ)方便(ほうべん)して、
睡眠せしむること(なか)れ。

前回に引き続き、“歩く坐禅”と言われる「経行(きんひん)」について、触れられていきます。「経行」は、坐禅中の坐屈・眠気防止のために、一定の時間、堂内をゆっくり歩くことですが、その歩き方は「一息恒に半歩なり、行くも亦た行かざるが如く、静寂にして動ぜす」とありますように、“一呼吸に半歩(一息半歩(いっそくはんぽ))の静かな動き”、そして、“動いているのかどうかさえもわからない”くらいのものであると瑩山禅師様はおっしゃっています。

実際に「経行」を行じてみますとわかりますが、一息半歩は自分が坐っていた場所から1〜2席程度、隣にズレるくらいの動きしかありません。そうやって静かにゆっくりと歩き、足のしびれを取りつつ、眠気を覚ますのが「経行」なのです。

そうした経行をやってみても尚、眠気が覚めない場合、瑩山禅師様は「目を濯ひ頂を冷す」ようにとおっしゃっています。これは、まさしく、冷たい水で目を洗ったり、頭から水をかぶるなどして目を覚ます方法です。さらに、瑩山禅師様は「菩薩戒の序を誦す」こともお勧めになっています。「菩薩戒の序」というのは、「梵網経(ぼんもうきょう)」という経典で、5世紀に中国で成立した戒律に関する経典です。そうやって様々な手段を用いながらも、眠気を除去し、我が身を坐禅に集中させていくことが瑩山禅師様の願いです。

そんな眠気を除去するために用いる種々の手段を、ここでは「方便」という言葉を使って言い表しています。人々の苦悩を解消し、煩悩を断滅させ、真理へと導くことが仏教の目的だとするならば、真っ直ぐにその達成へとつながっていく本修行と、多少の回り道をしながらも目的達成へとつながっていく予備修行があり、方便は後者に該当します。一見したところ、正攻法から外れたやり方には見えますが、一人一人の機根に応じながら、必ずや煩悩を断ち、苦悩の解消へとつながっていくという面においては、回り道をしても、確実に目的地に到達する方法とも言えるでしょう。それが「方便」なのです。

そうした方便を用いながらも、坐禅に我が身を投じ、集中させようとする背景に、日本に中国から曹洞禅のみ教えをもたらした道元禅師様の師・天童如浄禅師様の坐禅観が見え隠れしているような気がします。会下の修行僧たちに、「世間のあらゆる因縁から逃れ、禅の世界に飛び込んできたのならば、徹底的に坐禅をすることが仏道を歩む者のあり方である」とお示しになり、自ら坐禅修行に我が身を投じてこられた如浄禅師様。次回はその坐禅にかけた生き様・思いに触れてみたいと思います。