第70回「心散乱する時の対処法」

()し散乱する時は心を鼻端丹田(びたんたんでん)に安じて出入(しゅつにゅう)の息を数えよ。
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(いま)(きゅう)せざる時は(すべか)らく一則(いっそく)公案(こうあん)提撕(ていぜい)して挙覚(こかく)すべし。
(いわ)()れ何物か恁麼来(いんもらい)狗子無仏性(くしむぶっしょう)雲門(うんもん)須弥山(しゅみせん)
趙州
(じょうしゅう)
栢樹子等(はくじゅしとう)没慈味(もつじみ)の談、是れ其の所応(しょおう)なり。


これまで坐禅中に眠気を催した場合の対処法が示されてまいりましたが、今回からは坐禅中に集中力が続かなくなった場合(心散乱する時)の対処法について触れられていきます。これも、前回の「睡眠蓋(すいみんがい)」同様、坐禅中における私たちの精神の統一や身心の調整を妨害する存在です。むしろ、私たちは睡眠蓋以上に心散乱する場面に出くわし、悩まされることが多いのではないかという気がします。それ故、是非、“心散乱する時の対処法”を知っておきたいところです。

まず、瑩山禅師様は「心を鼻端丹田に安じて出入の息を数えよ」とお示しになっています。「丹田」はヘソの辺りを指します。ここは、古来より気息を調えるのに最も良好とされている箇所です。心が乱れ、落ち着かないときには自分のヘソのあたりに神経を、まさに“全集中”させ、吸う息・吐く息の数を数えてみると心が調っていくということなのです。

先日の夜のことでした。小学校から帰って来てから、疲れたのか、そのまま眠ってしまった次男(小学校2年生)が、8時頃、目を覚まし、夕食・入浴・宿題と慌ただしい夜を過ごしました。全て終わったのが夜の11時で、そこから布団に入り、入眠しようとしたのですが、案の定、眠れず、羊の数を500数匹数えた辺りで、やっと入眠できたということがありました。不眠に陥った者が睡眠に全集中すべく、羊の数を数えながら眠るという方法は昔から実践されているポピュラーな方法ですが、何かの数を数えているうちに、散乱していたものが調い、集中できるようになるというのは、坐禅の世界にも当てはまることなのでしょう。

しかし、それでも尚、心の散乱が収まらぬ場合、瑩山禅師様は「一則の公案を提撕して挙覚すべし」とお示しになっています。「公案(仏祖がお示しになった仏法の道理)を提撕(専心に参究すること)しながら、挙覚(心の散乱を戒め、坐禅に邁進すること)するようにということです。

坐禅を恁麼来(このようにやってみて)、様々な公案が誕生し、仏教史の中で語り継がれています。その中のいくつかが紹介されていますが、「狗子無仏性」は「狗子(犬)に仏性があるか否か」という唐代の禅僧・趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)(778-897)と一僧侶との問答に関する公案、「雲門の須弥山」は雲門文偃(うんもんぶんえん)(864-949)が「須弥山」という解答で以て、有と無といった対立の二見がないことを示した公案、「趙州の栢樹子」は趙州禅師がある僧侶に祖師西来(そしせいらい)(達磨大師がインドから中国にやって来たこと)の問いについて示した公案です。これらの公案は「没滋味の談(味のない公案)」であると瑩山禅師様はおっしゃっていますが、これは、言い換えれば、簡単に読み味わって理解できるものであるということなのです。

私自身、日々の坐禅修行を振り返ってみると、あるときは、睡魔との闘いに負けて、眠りこけて終わった坐禅がありました。また、別のあるときは、散乱する心の調整に悩みながら、最後まで心が調うことなく、心散乱のままに終わった坐禅もありました。いずれのときも、何ともと後味の悪い思いだけが残ったのですが、今、こうして「坐禅用心記」を読み味わってみると、古来より坐禅に身を投じてきた多くの僧侶方もまた、睡魔や心の散乱に悩みながら、坐禅修行に精進なさってきたことがわかり、どこかホッとしたような気持ちになるのです。坐禅に限らず、万事、自ら手を下す中で巡り合う困難や苦悩は、誰もが出会うご縁なのかもしれません。ただ、その困難の壁にぶつかったとき、断念したり、諦めたりすることなく、それを乗り越えていくことが大切かと思います。その繰り返しによって、道の達成が実現できるような気がするのです。そして、それこそが「精進」なのです。

私自身、古の僧たちと同じ悩みにぶつかりながら、日々の坐禅修行をさせていただける法悦を感じつつ、更なる精進を重ねていくことを誓うのです。