第78回「明見(みょうけん)の人 ―(もん)()(しゅう)の慧を以て―」

()の故に汝等(なんだち)(まさ)聞思修(もんししゅ)()を以て、(しか)も自ら増益(ぞうやく)すべし。
()
し人智慧の(しょう)あれば、是れ肉眼(にくげん)なりと(いえど)も、而も是れ明見(みょうけん)の人なり。
是れを智慧と()づく。

実智慧(じっちえ)の者」ということについて、前回はお釈迦様が明快な喩えを用いながら、お示しになってくださいました。そうした智慧を有した者を、お釈迦様は今回、「明見の人」という言葉で表現なさっています。「明見」というのは、この世の道理に自分の都合や好みなどの私見を一切混ぜ込むことなく、ありのままに受け入れられる力を意味しています。これが「智慧」であり、そうした明見の人の眼は、肉眼であっても、そこに映るものの全てが仏のお悟りそのものだということなのです。

新型コロナウイルス感染拡大のために、1年間延期になった「2020年東京オリンピック」の開催が5か月後に迫った2月の半ば、東京五輪組織委員会会長の女性蔑視発言による辞任・新しい委員長の就任といった大きな出来事が世間の注目の的となりました。前会長の発言については、大会ビジョンに掲げられた3つの基本コンセプトである「多様性と調和」に反する発言であるというのが世論の指摘の中に多々見受けられました。まさに、その通りで、今回の問題となった性別は勿論、出身や障がいの有無といった見た目の情報は、部分的には事実を示していても、全体的に捉えてみれば、事実を説いているとは言えないことが多いのです。大切なことは、見た目の情報ではなく、「その人が何をやってきたか」であり、「今までどう生きてきたか」ということなのです。ですから、私たちの眼一つとってみても、障がいのあるなしは問題ではなく、これまでどんな使い方をしてきたかが大切であり、その使い方が仏様のものの見方・捉え方を見習った「明見」であることを目指すのが重要であるということを、しっかりと押さえておきたいものです。

「その人が何をやってきたか」という点について、今回、お釈迦様がお示しになっている「聞思修の慧」に触れてみたいと思います。今、お釈迦様は八大人覚(はちだいにんがく)(人間として生きていく上で踏み行うべき8つのみ教え)の一つとして、「智慧」についてお示しになっていますが、これを具体的に言い表したのが、「聞思修」の「三慧」と呼ばれるものです。「聞慧」は教法を聞くことです。仏のお悟りに近づく上で、それを正しく説き示してくださる師の存在が大切であることは、お釈迦様始め、道元禅師様も瑩山禅師様も幾度もご指摘になっていらっしゃいますが、そうした師の言葉に自分の一切の私見を交えず、素直な心を持って耳を傾けてみるのです。そうすることによって、智慧が得られるようになるというのが「聞慧」です。

次の「思慧」は師から聞いた教法について、思いを巡らせることです。聞いた教えを、自分の日常生活の場面に置き換えて、考えてみるなどして、学びを深めながら、我が身に刷り込んでいくのです。こうした「思」というプロセスも怠ってはなりません。

そして、「修慧」というのは、教法の実践によって智慧を得ることです。知人の中に、福祉の現場で日々、利用者と関わりながら、その安全で快適な生活の提供を常々、目指している方がいらっしゃいますが、利用者の生の声をしっかりと聞き、利用者の立場になって相手を思い、考えを巡らせるからこそ、利用者にとっての最善策が実現できることを、本人との会話から感じます。お釈迦様がお示しになっている「聞思修の慧」は、何も仏道の世界だけに通ずるものではありません。一般社会においても通ずると共に、少しでも多くの人が「聞思修の慧」を以て、明見の人となり、その生き方を実践していくことによって、世の中が平穏で、安心感のある世界になっていくことを強く感じるのです。

三慧の中でも、特に「聞く」ことの重要性と、それを言動の根底に置くことの大切さを、普段の生活の中で、常々感じます。人との対話を通じて、自分の考えが強すぎるがあまり、人の話を遮って、持論を展開すること。相手の意見が間違っていると決めつけて、長々と反対論を展開すること。こうした聞き方では、誰もが望む静かで安心感のある対話など不可能です。何よりも聞くことが、世の中全体の幸せにつながっていくことを押さえながら、心静かに人の話を聞く力を養っていきたいものです。