第79回「不戯論(ふけろん) ―自らの日常会話を振り返る―

汝等比丘(なんだちびく)()種々(しゅじゅ)戯論(けろん)は、()の心則ち乱る。()た出家すと(いえど)も、()(いま)得脱(とくだつ)せず。()の故に比丘当(びくまさ)(すみやか)乱心戯論(らんしんけろん)捨離(しゃり)すべし。

大人(だいにん)(悟りを得た仏)が踏み行うべき8つの徳目(み教え)である「八大人覚(はちだいにんがく)」を読み進めてまいりましたが、いよいよ8つ目となる「不戯論」に入りました。お釈迦様は「戯論」なるものをお弟子様たちに戒めていらっしゃるわけですが、「戯論」とは、一体、何を意味しているのでしょうか。それを提示させていただく前に、これまで読み味わってきた「八大人覚」について、少し振り返っておきたいと思います。

少欲(しょうよく)」、「知足(ちそく)」、「遠離(おんり)」・・・振り返ってみますと、私たちの心の中に発生した三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)をどう調整し、どんな心持ちで、また、どんな行動によって、毎日を過ごしていくかという視点から示されていました。そうした中で、“どんな言葉を用いるか”、すなわち、“三毒煩悩を調整して、言葉を発する”という点については、まだ具体的に示されていなかったことに気づかされます。そうした私たちが普段、発する言葉に関するみ教えとなるのが「不戯論」なのです。

これまで学ばせていただいたことから見ていけば、「戯論」が「道理に合わない言葉」であり、「真実ではない議論や見解」であることを意味していることは容易に察しが付くと思います。戯論による会話では、「心則ち乱る」とお釈迦様がおっしゃっているように、穏やかな心持ちになることなど、到底、不可能です。また、「出家すと雖も、猶お未だ得脱せず」とありますように、たとえ出家の身にあっても、戯論を発し合っているようでは、得脱(一切の煩悩を断って、悟りを得ること)しているとも言えないとお釈迦様はおっしゃっているのです。

だから、こうした出家・在家を問わず、人々の心を乱す戯論の会話を、「捨離(直ちにストップさせること)すべし」とお釈迦様はお弟子様たちに願うのです。お釈迦様がおっしゃるように、出家者ほど「不戯論」を心がけるのは言うまでもありませんが、そのためには、日々の自分たちの日常会話をよくよく振り返り、戯論があるならば、自ら発することがないように注意していく姿勢を心がけていきたいものです。

出家者の戯論という点については、私自身もよくよく反省しなくてはなりません。相手に思いを馳せることなく発してしまった汚い言葉、怒りの感情を帯びた言葉、必要以上に相手を責める言葉、本人のいないところで発した悪口。これらは誰もが思い当たるのではないかという気がします。そして、仏教では修証義における「愛語」のみ教えだとか、戒律における十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)(ごう)のみ教えにおける身口意(しんくい)三業(さんごう)において、私たちが発する言葉について、幾度も注意喚起がなされていることを押さえておかなくてはなりません。我が心の中を清浄に調え、丁寧で穏やかな言葉を心がけていきたいものです。

また、言い方(言葉の発し方)のみならず、会話の内容にも留意していきたいものです。特に我々、出家者がお釈迦様のお悟りや仏法に関する話題を避けているようでは、出家者としての価値を失うと共に、社会からは、その存在自体が疑問視されることでしょう。以前、僧侶の集まりで曹洞宗門のある団体が制作したDVDを視聴したことがありましたが、その中に登場する僧侶の乗っていた車や演者の僧侶に関する私的な話題で盛り上がり、肝心の宗派を代表するご老師が語った重大な問題について誰も触れようともしないという、笑いごとにはならないような出来事がありました。「不戯論」を考えていく上で、まずは出家者自身自分たちの会話を調えていかない限りは、一般社会に対して、何も訴えるものが出てこなくなるような気がいたします。そこを重視し、日常生活の中で発する言葉というものに、十二分なまでに留意して過ごしていきたいものです。