第72回「(じょう)を起つの後 ―万事に“坐禅の用心”を以て―

(じょう)を起つの後、思量(しりょう)せずして威儀(いいぎ)を現ずる時は、見成(げんじょう)即ち公案(こうあん)なり。
回互(えご)せずして修証(しゅしょう)(じょう)ずる時は、公案即ち見成なり。
朕兆巳前
(ちんちょういぜん)
消息(しょうそく)空劫那畔(くうごうなはん)因縁(いんねん)、仏仏祖祖の霊機枢要(れいきすうよう)
()
()の一事なり。

新型コロナウイルス感染拡大に翻弄されるようになって1年。以前は3月というと、多くのお寺でお釈迦様のご命日にちなみ「涅槃会」が営まれるため、住職は法話の依頼をいただき、多忙な日々を過ごしていました。しかし、今年も法要のほとんどが中止、もしくは法話なしの短縮版という形で営まれており、去年に引き続き、静かな3月を過ごしています。

そんなまだまだ収束の気配すら見せぬ状況下、感染拡大前のように活発に布教活動が行えていた頃が懐かしく思い出されますが、あれはコロナ禍前のことでした。準備に時間を割いた割には、手応えが感じにくかった教場がありました。その原因を心静かに探る中で、ふと感じたのが、「自分は法話の場で仏法を説いているが、果たして自分自身がそれを実践できているのだろうか」という根本的な問いです。恥ずかしながら、このとき、日々の布教活動の準備にばかり目が向いてしまい、いつしか馴れが生じていたがために、謙虚な気持ちで自分と向き合うことができていなかったことを反省させていただいたのです。

こうした本番では役をしっかりと演じ切っていたのが、本番が終わった途端に気が抜けて、怠惰な生活を送り、再び本番が近づけば、役作りに専念するというような心がけでは、いつまでたっても道を達成することはできません。本番であろうがなかろうが関係なく、どんな状況下でも自らの身心を調え、道を歩み続けていく姿勢を保ち続けることが大切なのです。それが「定を起つの後、思量せずして威儀を現ずる」の意味するところです。坐禅が終わったからといって、気が抜けて、ダラダラと行動するのではなく、威儀(日常の言動・立ち振る舞いの全て。特に周囲の人々に崇敬の念を抱かせる言動や姿)に坐禅の精神やみ教えを働かせ、坐禅をするが如く、言動の一つ一つを丁寧に行じていくことが大切であると瑩山禅師様はお示しになっているのです。

そして、そうやって状況が調っていくと、「見成即ち公案なり」とありますように、我々の眼前・周囲に仏法(公案)が余すことなく全て姿を現す(見成)というのです。次の「回互せずして修証を成ずる」というのも同じことを意味しています。回互というのは2つ以上の存在が入り混じって関係し合っていながらも、それぞれが持つ特性は失われていない状態です。我々は、普段は2つ以上の存在に対して、それぞれの特性を認め、分別して捉えますが、分別した捉え方を離れ、一体の存在として捉えていくとき、全てが仏の悟りの世界となっていくのです。

次に「朕兆巳前の消息」とか、「空劫那畔の因縁」という言葉が出てきます。「朕兆」とは「きざしやしるし」のことです。その“巳前”ということですから、「物事のきざしやしるしが現れる以前の状態」を意味します。また、「空劫」は世界が成立する前の状態のことで、「那畔」は「その辺り」という意味です。そうした言葉が指し示すように、如何なる状況下であっても、自らの言動の全てに坐禅の用心を働かせ、仏のみ教えに準じて丁寧に行ずることが「仏仏祖祖の霊機枢要」ということなのです。「霊機」には「霊妙・不可思議なる働きや機転」、「枢要」には「物事の最も大切なところ」という意味があります。坐禅を通じて一佛両祖様(お釈迦様・道元様・瑩山様)がおっしゃっているのは、そうした心構えを以て日々を過ごすことなのです。「唯だ此の一事なり」という一言に、祖師方の坐禅に対する強い思いや願いを感じると共に、ここに全てが集約されているように思うのです。

そうした一佛両祖様の思いをしっかりとくみ取り、私たちも万事に「坐禅の用心」を働かせながら、毎日を丁寧に過ごしていきたいものです。