第80回「
自分たちが発する言葉というものを調えながら、普段の会話について思いを巡らせることの大切さを説く「
発言という点について、折しも、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗前会長の「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という「女性蔑視発言」が物議を醸しだしました。お檀家さんの月参り等、人様と関わることがあれば、何かと、この一件が話題になることが多かったですが、そんな中で、大半の方が「発言は決して、許されるべきものではないが、世間のバッシング(過剰なまでの批判)には違和感を覚える」とコメントされていたのが印象深いです。かく言う、私自身もそのように捉えております。
元衆議院議員の宮崎謙介氏が「今の日本は、“一億総攻撃病”に侵されている」とおっしゃっていましたが、そんな現代の日本に対する一抹の不安を覚えながら、森前会長の一件を通じて、お釈迦様がお示しになっている「不戯論」をしっかりと味わっておきたいと思います。まず、お釈迦様は「汝寂滅の楽を得んと欲せば、唯当に善く戯論の患を滅すし」とおっしゃっています。「寂滅」とは、「悟りの境地」を意味します。すなわち、「心が穏やかで静かになった状態」のことです。これは「
そのことは、誰もが求めているはずなのですが、現実を考えてみたとき、もしかすると、半ば理想論だと捉え、諦めている部分もあるかもしれません。しかし、お釈迦様は「戯論さえ慎めば、誰もが寂滅という境地を得ることができる」と断言なさっています。これをしっかりと信じ、現実を変えていきたいものです。すなわち、戯論の患を滅することを意識しながら、寂滅の境地を理想で終わらせることだけはないようにいきたいものです。
そういう意味では、仮初に現代社会が“一億総攻撃病”に侵されていたとしても、森前会長の発言は現実世界に寂滅をもたらすことができなかったのは確かです。「戯論」であったと認めざるを得ないでしょう。その上で、今一度、考えておきたいのは、果たして、森前会長がおっしゃるように、「女性だけが会議を長引かせているか。」ということです。「誰かが発言したら、我も我もと挙手して発言するのは女性だけ」なのでしょうか。
先日、参加させていただいた会議は、3つの議案に対して、所用時間が2時間というものでした。参加者の発言に耳を傾けながら、ふと感じたのは、会議の進行を妨げる発言が若干存在したということです。たとえば、自分の過去の役職に捉われ、そのときの経験や能力を見せびらかんとしているように感じられるもの、前に進もうとしている話をストップさせて、持論を展開して、足を引っ張るもの。こうした発言によって、会議の方向性がズレ、議長が軌道修正する苦労が慮られました。ちなみに、これらの発言は女性ではなく、男性からのものでした。つまり、発言に男女の性差はないということなのです。すなわち、男女問わず、言葉を発する者一人一人が、自分の発言によって周囲に不快感を与えないか、その場の空気を壊さないか、流れを止めて、誤った方向に進めていないか、そういったことによくよく思いを巡らせながら、言葉を提示していくことが「不戯論」であるということなのです。
大切なことは、周囲に思いを馳せながら、責任のある発言を心がけていくということです。そうした我々一人一人の言葉への配慮によって、寂滅の楽を得ることができるようになっていくのです。