第20回「不説過戒(ふせっかかい) ―周囲と“(ひとつ)”になるとき―」

第六不説過(ふせっか)。仏法の(うち)に於いては、道を(ひとつ)にし、法を同にし、
(さと)
りを同にし、行いを同にするなり。
(とが)
を説かしむること()し。道を乱さしむること莫し。

「“過”を説くことなかれ」というのが、六つ目となる仏戒の説かんとしているところです。“過”とは、“過ち”ということです。他者の失敗や罪過を話題にして不用意に攻め立てない、また、相手の人格を否定するような言動を発しないというのが、「不説過」なのです。

この「不説過」を自分たちの日常生活の中に当てはめてみたとき、考えてみたいことがあります。もし、周囲の誰かが失敗を犯したとき、あなたはその人を責めるでしょうか。あるいは、責めることなく、許すなり、フォローするなりして、相手のミスを庇うでしょうか。また、ミスをした相手によって、責めるか許すか、その態度が異なるということはないでしょうか。普段の日常生活を振り返ってみたとき、他者の失敗に対して批判的な見方が生じたり、場合によっては、相手によって、その対応に差が生じたりするのではないかという気がします。

それに対して、仏法の世界の場合、道元禅師様は「仏法の中に於いては、道を同にし、法を同にし、証を同にし、行いを同にするなり」とお示しになっています。相手(周囲)に対して、歩調を合わせるが如く関わっていくのが仏法の世界であるということです。そうした周囲との関わり方によって、自分と相手との間を分け隔てる垣根がなくなり、一体化していくというのが「同」の意味するところです。そのことに気づく中で、実は自他を分別する垣根というのは、自分が勝手に作り上げていた存在でしかなく、本当は最初から存在していなかったことが見えてくるのです。修証義第4章「発願利生(ほつがんりしょう)」の中で、道元禅師様が「四枚(しまい)の般若」の一つとして掲げている「同事(どうじ)」というのは、まさにこういうことを説いたみ教えということになるのでしょう。「周囲と自分を同にする」のが仏道であり、そうなっている世界が仏法の世界なのです。

そうした周囲と同になっている関係性を思い描いてみたとき、たとえ相手がミスをしても、それを責め立てるような言動が生じるはずないのです。そもそも、仏法の世界では、そんな言動自体が存在しないのであり、まさに「過を説かしむること莫し」なのです。また、他者の人格を否定するような、相手の身心を混乱させるような言動も存在しないのです。それが「道を乱さしむること莫し」ということです。「第五不酤酒(ふこしゅ)」において、「()ち来ること()く、侵さしむることも莫き」とありました。「自分を酔わせる酒のごとき存在によって、酔うようなこともなく、他者を酔わせることもないように」とのお示しでしたが、それと同じように周囲と同になることによって、周囲の過失を責めたり、相手を混乱させるような言動を発することないようにしていくことが、「不説過」の目指すところなのです。

ある福祉施設での出来事です。利用者の家族から電話があり、応対した職員がその内容をメモに書き留め、担当職員に引き継ごうとしました。メモの内容は家族の利用者との縁を切らんと願うもので、決して、利用者に見られてはならないものでした。ところが、事もあろうに、そのメモを利用者が見てしまったのです。当然ながら、利用者は大きなショックを受けました。利用者に見られてしまったのは、ほんの一瞬の間に起こった事故ではありましたが、応対した職員は自分が利用者に見られないようにする配慮が足りなかったと、自らの重大な過失を認め、施設長に報告し、担当職員に謝罪しました。

すると、担当職員はかほどに重大な過失であったにもかかわらず、その職員を責めることなく、利用者の様子を伺いながら、その心の傷を癒やす関わりを続けてくれたのです。自らの過失を反省する職員は言いました。「怒られるくらいの重大ミスだったが、もし、誰かに自分の過失を責められていたら、立ち直るのに時間がかかったかもしれない」と。以来、その職員も他者の過失を責めないように留意すると共に、職場の人間関係が(ひとつ)に近づき、職員間の信頼関係も強化され、職場環境がより一層良くなっていったとのことでした。

“周囲と同になる”という仏法の世界を是非、手本にしながら、この娑婆世界を過ごしていきたいものです。