第21回「不自讃毀他戒(ふじさんきたかい) −“世界平和の実現”に向けて、尽空(じんくう)(さと)り、大地(だいち)(さと)る−

第七不讃毀自他(だいしちふさんきじた)乃仏乃祖(ないぶつないそ)尽空(じんくう)(さと)り、大地を証りたもう。
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し大身と現れたまえば(くう)中外(ちゅうげ)無く、
或し法身と現れたまえば地に寸土(すんど)無し。

修証義第三章「受戒入位」では、“不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)”となっているのに対して、「教授戒文」では、“不讃毀自他”となっているのが興味深いところです。その理由は明確になっていないようなので、今後も参究の余地があるとして、試みに禅学大辞典で“不自讃毀他”を調べてみると、“不讃毀自他”と意味は同じで、「自分を誉め、他を謗るようなことをしない」とあります。人間たるもの、いいところもあれば、悪いところもあります。そのことに目を向けることなく、自分の欠点を認めず、他者の欠点ばかり指摘しては、相手に恥辱を生じさせるようなことは、仏の行いではないことは言うまでもありません。特に大勢の人がいる前で、特定の人間を批判したり、罵倒するようなことは慎みたいものです。そんな「不自讃毀他」ということを、私たちも仏のみ教えと共に生きる一人として、留意していきたいものです。

さて、本文を見てみると、「乃仏乃祖、尽空を証り、大地を証りたもう。」とあります。“乃”には“昔”とか、“以前”という意味があります。ですから、乃仏乃祖とは「教授戒文」をお示しになった道元禅師様以前の祖師方、すなわち、戒法をお悟りになったお釈迦様(仏)や、それを代々相承してくださった祖師方を指していることに気づかされます。そうした仏教の祖師方が空や大地を証ったということなのですが、これはどういうことかと申しますと、私たちの頭上に拡がる空にしろ、足元に拡がる大地にしろ、いずれもが無限のであり、制限がないということなのです。それが仏がお悟りになった本来の姿なのですが、にもかかわらず、空や大地に自分たちの尺度で制限を設け、「100uの土地は私のもの、その隣の50uはあなたのもの」といった具合に、境界線を設けているのは、私たち人間に他ならないのです。そして、そうした境界線を設けることが、争いを生み出していくのです。

コロナ禍冷めやらぬ令和3年3月16日、アメリカからブリンケン国務長官とオースティン国防長官が来日。日本政府の茂木敏充外相と岸信夫防衛相と両国の政権発足後初となる「安全保障協議委員会(2プラス2)を都内で開催しました。会合では去る2月1日に施行された中国の「海警法」に関して、地域の混乱を招くとする深刻な懸念が表明されました。この法律は、自国が設定した管轄海域に違法行為の疑いがある外国船が侵入したと判断した場合、追跡・監視・拿捕(だほ)(船舶抑留等の実力行使)できることを定めたもので、「2プラス2」は、それに対応する堅固な日米同盟をアピールする場となったようです。これを受けて、3月17日の北國新聞社説には「今後は日米同盟をさらに堅固にしていく上での具体論が求められるだろう」とありましたが、現実の娑婆世界における国家間の関係は、いつの時代も平和と争いを繰り返してきたことは歴史が証明しています。そうした中で、「不自讃毀他戒」にあるように、「尽空を証り、大地を証る」という乃仏乃祖の行いを、娑婆世界に生かされている我々も見習いながら、自らの言動に反映させていきたいものです。「大身と現れたまえば空に中外なく、法身と現れたまえば地に寸土なし」とあるのは、我々が仏と共に生きることによって、悟りを得た仏様の御身を意味する大身や法身が現れたならば、空には中外の区別がなくなって一体と捉えられるようになり、また、大地においても、寸土(少しの土)でさえ、大地に一体化していると捉えられるようになることを説き示しているのです。

私たち一人一人が、少しでも「尽空を証り、大地を証る」ことができるようになれば、自他の区別がなくなります。これが、前回も提示させていただいた“(ひとつ)になる”ということです。このとき、必要以上に自分を褒め称えたり、相手を罵倒したりすることはなくなっていくでしょう。そうやって平和が実現されていくような気がします。平和の実現は、“持続可能な開発目標”を謳う「SDGs」の目標の一つにも掲げられている“平和と公正をすべての人に”とも合致しております。私たち一人一人の意識と修行が世界の平和につながっていくのです。