第74回「揀択(けんじゃく)の心を放下(ほうげ)する −“(じょう)の道”に生きる上で−

お釈迦様以降、仏教の祖師方は坐禅を行じながら、今日まで仏法を伝えてまいりました。坐禅こそが祖師方の歩んできた道であり、その坐禅によって、祖師方が成道(じょうどう)(悟りを得る)なさってきたという事実が歴然として存在しています。

そんな坐禅の道を同じように歩み続けてこられた瑩山禅師様という祖師によって示された「坐禅用心記」を、当HPでは、約1年半、73回に分けて読み味わってまいりました。これによって、少しでも多くの方が坐禅の魅力を観じ取ると共に、日々の生活の中で、坐禅の道を歩みながら過ごすことを願うばかりです。

お釈迦様が80年の生涯を終える間際にお弟子様方にお示しになったみ教えが筆録されている「仏遺教経」には、「八大人覚(はちだいにんがく)(我々人間が仏のお悟りに近づいていくための8つの方法)」が提示されています。その一つである「(じょう)」は「禅定(ぜんじょう)」とも申し、「坐禅」を意味しています。大地にどっかりと腰を下ろし、足を組み、背筋を伸ばせば(調身)、段々と乱れていた心や呼吸が調ってきます(調心・調息)。これを日常生活の中のあらゆる場面で思い起こしながら、我が自身が発する言葉や行いに対して、「坐禅の用心」を働かせながら提示していくことが、「定」の説かんとするところです。

そうした「定」のみ教えに着目してみると、坐禅という仏行を“やって、やって、やり続ける”習慣は大きな意味があることに気づかされます。なぜならば、そんな習慣によって、私たちの身心が調い、仏のみ教えに満ちた日常生活が送れるようになっていくからです。

しかし、いくら坐禅に身を投じても、ある一点を留意しておかなくてはならないと永平寺をお開きになった道元禅師様はお示しになっています。それが「揀択の心を放下する」ということです。「揀択」というのは、取捨選択によって、憎愛等の二見が発生することです。すなわち、物事を自分の好みや都合で選り好みすることですが、こうした考え方の根底にあるのは“我”です。これは、自分を最優先にし、自分を可愛がることですが、こうした“我”がある限りは、いくら坐禅をしても、お釈迦様のお悟りには近づけないと道元禅師様はおっしゃっているのです。

定の道(坐禅の道)を歩むことに対して、魅力を感じ、自らも見習っていこうと願うとき、まずは、自身の中に存在している「揀択の心」を生み出す“我”を調整し、選り好みをストップさせることを最優先課題として掲げておきたいものです。その上で、我が身心を調えていきたいものです。