第82回「精進 −後悔しない生き方−

()しは山間(せんげん)、若しは空沢(くうたく)の中に於ても、若しは樹下(じゅげ)閑処(げんしょ)静室(じょうしつ)に在っても、所受(しょじゅ)の法を念じて忘失(もうしつ)せしむること(なか)れ。常に当に自ら勉めて精進して之を修すべし。為すこと()うして空しく死せば、(のち)(くい)あることを致さん。

前段において、人間は自分勝手な解釈を捨て、仏法僧の三宝に我が身を委ねながら我が身心を調えていくことによって、安心のある日常生活が実現されていくことを確認させていただきました。こうした意識を忘れることなく、お釈迦様のお悟りに向かって真っ直ぐに突き進んでいくことが「精進」です。だからこそ、お釈迦様は「当に自ら勉めて精進して之を修すべし」と我々に強く願われるのです。

精進は今、自身がどんな状況に置かれていようが、どんな環境下にあろうが関係なく、誰もが忘れることなく踏み行っていただきたい行であるとお釈迦様はおっしゃっています。それが「若しは山間、若しは空択の中に於ても、若しは樹下、閑処、静室に在っても、所受の法を念じて忘失せしむること勿れ」の意味するところです。山間は山の中、空沢は物静かな場所、樹下は木の下、閑処や静室も静寂な地を意味してます。たとえどこにいたとしても、法を念じ続け、精進していくことが欠かせないというのですが、その理由をお釈迦様は「為すこと無うして空しく死せば、後に悔あることを致さん」とおっしゃっています。精進を意識することなく、何も為さずにいつか訪れる死を迎えてしまうことほど、残念なことであり、確実に後悔をもたらすというのです。お釈迦様は、そのことを熟知しているがゆえに、法の精進ということをお示しになっているのです。これぞまさに、お釈迦様の我々に対する「老心」であるような気がいたします。

実際、誰もが「後悔しない生き方」を願っていることでしょう。それならば、是非とも、お釈迦様がお示しになっている「精進」という、仏道を歩み続け、自らの身心を調えていく生き方を行じていきたいものです。

ちなみに、山間や空択等の私たちの住環境に関して、曹洞宗の太祖・瑩山禅師様は「人と関わることによって、心静かに坐禅修行ができなくなるからと言って、一人静かに山谷に住んで仏道修行に励んでも、仏の悟りに近づくどころか、誤った道を進むことにさえなりかねない」とおっしゃっています(伝光録(でんこうろく)・第14章「拈提」)。この理由を瑩山禅師様は「一人静かな環境を求めることは我が身を最優先とした考え方であるから」とお示しになっています(同章「拈提」参照)。どんな環境であれ、自分の見解に基づいた良し悪しで論じづけることなく、我が身を仏の道へと導いてくださる正師を求め、志同じくした仲間と共に仏の道を精進していくならば、どこであっても、そこは身心共々に安楽をもたらす静寂なる環境になるのです。

そうした環境を調えながら、仏の道を精進していくことが、我々の「為すこと」であり、そうすることによって、“後に悔のない”生き方につながっていくことを、ここで今一度、確認し、お釈迦様の老婆親切に報いる日常を過ごしたいものです。