第75回(最終回)禅戒一如(ぜんかいいちにょ) ―“(ひとつ)”を実感する坐禅を!―

曹洞宗門に「禅戒一如」という言葉があります。お釈迦様より代々相承(そうじょう)されている坐禅と戒(悪を起ち、善を修する習慣・行為)は名称は違えど、説き示す内容は同じものであるということです。

戒については、当HPでも「教授戒文(きょうじゅかいもん)」や「修証義(しゅしょうぎ)第3章・受戒入位(じゅかいにゅうい)」の項始め、「曹洞宗の通夜・葬儀」の項においても触れております。特に「教授戒文」を見てみると、道元禅師様が「“(ひとつ)”になる」ということをおっしゃっていることに気づかされます。これは、自分という存在が周囲に存在している人や動植物、大自然といった存在と同化していくことを意味しているわけですが、私たちがいかに「“同”になる」ということを意識し、実践していくことができるかが、戒のみ教えと共に生きる日常について考えていく上で大きなポイントになります。

以前、曹洞宗門において名の通ったご老師が、ご自分のお寺で開催している坐禅会に参加されている方々に「自分が坐禅をしているところ」を描かせたところ、参加者全員が「坐禅をしている自分の姿のみ」を描いたそうです。これに対して、ご老師は「皆さんの描いた絵は違う」とおっしゃいました。一体、何が違うのか―?それは「絵には坐禅をしている自分の周りの様々な存在が描かれていないから実際のものとは違う」というのです。

よくよく考えてみれば、坐禅をしている自分の尻の下には「坐蒲」という坐禅用の座布団があります。さらにその下には自分の身体を支えているお堂の畳、さらに外に目を向ければ、私たちの足下に限りなく広がる大地の存在に気づかされます。また、視線を頭上に向ければ、空が限りなく拡がっています。私たちの足下に拡がる大地も然り、頭上に拡がる空も然り、様々ないのちが生かされています。そうした周囲の存在と自分とのつながりを実感し、自分が周囲の様々な存在と関わり合って生かされていることを実感するのが、「“同”になる」ということなのです。坐禅はまさに、自分と周囲が「“同”になる」行そのものなのです。そして、“同”を実感することこそが、私たちの乱れた心を調え、静寂に落ち着けてくれるのです。

そうした心の調整を、幾度も姿勢を調えて坐禅の世界に我が身を投じながら行っていく中で、我が言動が悟りを得た仏の言動に近づいていくのです。だから、坐禅は「悪を断ち、善を修す」ことを意味する「戒」そのものだというのです。すなわち、私たちは坐禅をすることによって、仏に近づくのです。それが「禅戒一如」の指し示すものなのです。

そんなお釈迦様から受け継がれてきた坐禅を通じて、仏のお悟りを得た祖師が、我が曹洞宗門の両祖様である道元様と瑩山様です。お二人とも坐禅一筋に生き、坐禅こそが人間性の完成につながる道であることを、自らの実体験を通じてお示しになってるのです。

この世には様々な人がいて、色々な考え方があります。こうした両祖様の生き様や坐禅を提示しても、様々な受け取り方ができるでしょうから、一方的に坐禅観を押し付けるわけにはいきませんが、祖師方のみ教えである坐禅に我が身を委ねてみることをおススメします。実際にやってみると、次第に、毎日が尊く、生きることがいかに素晴らしいかに気づかされるような気がします。私自身、近頃は、ようやくそんな一人になれたような気がします。そんな我が実体験を大切にしながら、これからも坐禅を「やって、やって、やりまくる」日常を心がけながら、仏のお悟りを追求し続けていきたいものです。