第83回「不忘念(ふもうねん) ―“自己判断”よる三宝帰依の日常を―

我は良医の病を知って薬を説くが如し、服すと服せざるは医の(とが)に非ず。
又た善く導くものの、人を善道に導くが如し、之を聞いて行かざるは、
導くものの咎に非ず。

お釈迦様はおっしゃいました。

「私はよき医者で、よき薬を説いているような存在である。そんな私が示した薬を服すかどうかは医者が関知するところではない。そんな私は、人を善き道へと導きいれるようなものである。その言葉を聞いて、善道を歩むかどうかは、師(善道に導く者)の責任ではない。」

こうして今回の一句を読み味わってみますと、中には責任転嫁の印象を覚える方もいらっしゃるかもしれません。そう捉えると、このお言葉と、あらゆるいのちに救いの手を差し伸べることを役目とするお釈迦様の生き様との矛盾を感じるかもしれません。

しかし、このお言葉は決して、責任転嫁の言葉ではありません。よくよく考えれば、その通りであることに気づかされるのです。お釈迦様は、“優れた医者”というたとえを用いながら、自らが人を善道(仏のお悟りの道)へと招き入れる“よき師”であるとおっしゃっています。“善き師”とは、仏遺教経の中では“善知識(ぜんちしき)”という言葉で表現されていました。また、修証義第3章の言葉を使えば、“大師(だいし)”ということでもあります。そうした“善き師”たるもの、良医が良薬を勧めるように、善き師としての教えを説いて勧めることはあっても、決して、押し付けるようなことはしないのです。だから、良薬(善き教え)を服すかどうかは、それを受けた者の判断にお任せするしかないのであり、あくまで自己責任の下で我が人生を生きていくことが、我が人生を歩んでいく上での大原則であることを押さえておかなくてはなりません。

我々凡夫は、自分に都合が悪くなれば他者に責任転嫁します。やれ、「上司が悪い、世の中が悪い」と言い出し、どこまでも自分の非を認めることなく、謙虚に反省することさえありません。私たちの日常生活において、周囲を見渡せば、様々な存在があります。自分にとってプラスになるものもあれば、マイナスになるものもあります。良医たるお釈迦様が発する良薬たる「仏法」は、私たちにとってプラスになるのは確かです。しかし、それが自分にとって本当にプラスになるかどうかは、自分しかわかりません。だから、自分で判断するしかないのです。

そうした自己判断を下す上で、お釈迦様始めとする道元様や瑩山様のような祖師方、今日まで仏法を師から弟子へと伝えてきた多くの僧の存在は、私たちが仏法と共に生きていく上での判断材料となる善き存在であり、まさに「勝友(しょうゆう)」です。自らの日常を振り返りながら、より善き人生を歩んでいきたいと願うならば、仏法僧の大海に我が身を投じるという、「三宝帰依の日常」を送ってみるのも悪くはありません。確実に人間性がより良い方向に磨かれていきます。

今回、味わってみたお釈迦様が発せられたお言葉を我が身に刷り込んで忘れることなく(不忘念(ふもうねん))、自己判断による三宝帰依の日常を願うものです。