第24回「不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) ―“薩婆若海(さつばにゃかい)に帰す”生き方を―

第十不謗三宝(ふぼうさんぼう)
現身
(げんしん)
演法(えんぽう)世間津梁(しんりょう)は、徳、薩婆若海(さつばにゃかい)に帰して、称量(はか)るべからず。
頂戴奉覲(ちょうだいぶごん)すべし。

仏戒(仏の生き方)というものを、10通りの観点から示した「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」を味わってまいりましたが、ついに最後の10箇目となる「不謗三宝戒」に辿り着きました。「教授戒文」では、最初の大枠として、「懺悔(さんげ)を通じて、仏法僧の三宝に帰依する」ことが示され、そこから三聚浄戒(さんじゅじょうかい)、そして、十重禁戒へと入っていきましたが、最後に再び三宝帰依に帰着するという形で説法の幕が降ろされることが、非常に興味深いところです。やはり、「三宝帰依」ということは、仏教徒として、さらには、人間として正道を歩んでいく上で、外すことのできない基本姿勢であるということを、今一度、確認しておきたいところです。

さて、今回は「不謗三宝」ということで、字面から判断すれば、「仏法僧の三宝を(そし)らない」ということを説いているのは言うまでもありませんが、これは、言い換えるならば、「三宝帰依」を説いていると解すべきでしょう。すなわち、仏法僧の三宝に対して、私見を交え、むやみやたらと誹謗中傷のごとく否定するようなことは慎み、我が身を三宝の大海に投げ入れ、委ねていくことが、仏法(人間のあるべき生き方を指し示したみ教え)と共に生きていくということなのです。

本文中に「現身」とあります。これは、「仏」のことなのですが、この娑婆世界において、我々の眼前に姿形を表した仏様として捉えればよろしいかと思います。また、「演法」というのは、「法」のことで、仏が娑婆世界を舞台として仏法を演説し、それによって、多くの人々が苦悩から救われてきたということです。そして、「世間の津梁」は仏法僧の三宝を今日まで伝えてきた「僧」を意味しています。“津”は“渡船場”、“梁”は“橋”ということなのですが、娑婆世界に生きる人々が仏法の大海を渡り、悟りの地に渡る上で欠かせぬ渡船場であり、橋ということです。言い換えるならば、娑婆世界における全ての存在を救うと共に、私たちの中に無意識のうちに形成された娑婆世界と仏の悟りの世界との間の境界を取り払い、双方が一体となって、一つに溶け合っていることに気づかせてくれる善き師であり、勝友(しょうゆう)であるのが「世間の津梁」なのです。

そうした境界がなく、どこまでも果てしない広大な海のごとき仏の智慧を意味しているのが「薩婆若海」です。そこに帰着してしまえば、A地点は自分のもので、B地点はあなたのものといった、境界を意識する(称量る)ことがなくなるのです。これぞ仏戒における重要なポイントの一つとして掲げられている「“(ひとつ)”になる」ということが徹底した状態なのです。

こうした三宝帰依によって、仏戒という生き方に巡り合うことができるということを、しっかりと自覚し、敬意を以て三宝とのご縁を結ぶことを願って、「頂戴奉覲すべし」と道元禅師様は締めくくっていらっしゃいます。「覲」には、「目上の者にお会いする、まみえる」という意味があります。私たちが仏法僧の大海に我が身を投げ入れ、けっして、そこから離れることなく、一体となって融け合いながら関わっていくことを自らの生き方に反映させていきたいものです。