第84回「四諦(したい) “苦()(じゅう)(めつ)(どう)”の理解と実践―

汝等比丘(なんだちびく)()し苦等の四諦(したい)に於て疑う所ある者は、(はや)く之を問うべし。
疑いを懐いて決を求めざること()ること無かれ。
()
の時に、世尊(せそん)(かく)の如く()たび唱えたもうに、人問いたてまつる者なし。
所以
(ゆえ)
(いか)んとなれば、衆疑(しゅううたが)い無きが故に。


刻一刻と迫る自らの人生の終幕をヒシヒシと感じながら、お釈迦様(世尊)は、お弟子様たちにおっしゃいました。

「苦等の四諦の中で、疑問点がある者がいたら、早く質問してほしい。疑問点を持ったままでは正確な理解は得られまい。」と―。

お釈迦様は「三たび唱えたもう」とあるように、幾度もお弟子様たちに質問はないかとお聞きになりました。「三」というのは、世間一般には「三回」などと解釈しますが、仏教の世界においては、定まった回数を言っているのではなく、「何回も」という意味で使われることを押さえておきたいと思います。

しかし、そんなお釈迦様に対して、「人問いたてまつるものなし」とあるように、お弟子様たちからの質問は誰一人としてありませんでした。なぜなら、「衆疑い無き」とあるように、全ての者がお釈迦様のみ教えを理解できていて、何一つとして疑問点がなかったからです。それは、あたかも雲一つない、晴れ渡った青空のごとき心境だったのではないかという気がします。

ここで、お釈迦様がお弟子様たちに確認なさった「四諦」について、下記の一覧表で確認しておきましょう。これは、悟りを得たお釈迦様が鹿野苑(ろくやおん)において、初めてなさったご説法(初転法輪(しょてんほうりん))です。

苦諦(くたい) 生きることは苦しみの連続であり、それは避けられない道理であるということ。
集諦(じったい) 生きる上での苦悩を生み出すものの原因は三毒煩悩と善悪の行いであるということ。
滅諦(めったい) 一切の煩悩がなくなり、あらゆる苦悩が滅した状態(涅槃)
道諦(どうたい) 滅諦に至る手段や修行(八正道(はっしょうどう)

この四諦については、私たちも是非、確実に抑えておきたいものです。と申しますのは、四諦に対する理解なき者は、いつまで経っても、この世を正しく受け止め、理解することができないがために、何かにつけては私見に捉われ、苦悩の渦中から逃れることができないからです。まずは苦諦を受け止めることが肝心です。その上で、他の道理に目を向けてみると、集諦において、私たちの苦悩の原因がはっきりと明示されていることに気づかされます。そして、滅諦においては、私たちが生きていく上で、どんな状態を目指すべきかが示されると共に、道諦においては、どうすれば苦悩の渦中から逃れられるかが的確に示されています。道諦における「八正道」について、詳細に説明する紙面の余裕はありませんが、自らの言動や考え方において、“偏らない”ように留意していくということです。すなわち、自分の好みや都合を最優先するあまり、好き・嫌いといった相対する捉え方が生じて、周囲との関わり方が偏るようなことをしないようにしていくということです。

こうした四諦というものを正確に理解すると共に、日常生活において意識的に実践していける力を有しているのが、世尊たるお釈迦様であり、そのお弟子様なのです。